『関西魂』(かにたま)を読む(2)
4。『モテラボ』:松尾佑一
わたしは、この短編集の最初に其の表紙を見て、いいなと思つたのです。これは一体どういふ女性であるのかと、想像を巡らせた。
ところが、この作者の紹介欄をみると、男性名であつて、この表紙も描いたとある。
この方は、やはり女性に違ひないとわたしは思ひますが(あるひはよし男だとしても非常に女性的な繊細さをお持ちの男性なるらむ)、この裏と表との落差に、何かこの方の特色があるのではないかと思ひます。
それは、表紙の絵も、矢印を描いた標識があちこちに散見されて、矢印とは方向を示す標識ですから、これもそのままもつといへば、安部公房の世界に通じてをります。何故ならば、矢印を掲示し、方向を指し示すといふことは、あるモデルを製作して、それを示すことに他ならないからですし、この方の経歴が理工学部の研究者でゐらしたといふことも、やはり、この表紙絵の指し示してゐる通りであると思ひます。
この方を4番目に置いたのは、前の3名の(SFの)作家と同じ列に並んでゐるからで、即ち、(SFではないものの)終わりが開かれてゐて、この登場人物と大学の理工学部を舞台に、やはり連作になり得る作品だと思つたからです。鏡餅といふ名前の面白い柴犬も含めて。
略歴を拝見すると、既にprofessionelでゐらつしゃるので、さもありなむと思ひました。
5。『君が得た楽園について』:冬原あや
柚木といふ美しい若者に対する呼びかけで始まる小説です。
二人称の呼びかけを一人称のわたしがして、その回想の形式で、この若者のことが始まり、その後に、三人称(柚木)とわたしといふ一人称の章が登場して、それぞれの章の長短は別にして、この二つの書き方の章が謂はば交代しながら、最後まで話が進むといふ書き方で、この小説は書かれてをります。
前者は、独白であり、後者は、叙事になつてゐます。
この差異が、話の筋にメリハリを与へてゐるのではないでせうか。
著者紹介欄に、「ボーイズラブをこよなく愛」するとありますので、そのやうな方のお書きになつた小説と、読み終えてから其れを読みますと、確かにさう思ひます。
最後の終わり方は、やはりわたしには安部公房の小説の結末を、大いに連想させました。
この方は、安部公房の読者なのでありませうか。
全く、この小説とは関係はありませんが、わたくしめは、柚木なる草深き里にすまひしてをります。
6。『リアル』:原瑚都奈
著者紹介欄に、「昨日は友達と居酒屋でどっちが美味しそうにご飯を食べられるかを競争しました」とありますので、これは若い方でありませう。(とてもわたしには真似はできないと思ひました。)
人間が何か中間状態にゐて、その曖昧の地帯にただよふところを書いてゐると思ひました。その不安も、快美も、両方を。
それは、最初の一行が、水泳部のプールに浮かび、また潜る主人公の若い女性のことから始まり、最後の一行の、自分が混血である中間状態の人間と自分のなる因をなした父親の見返へす眼を描くところまで、思ひとしては首尾一貫してをり、この方の関心の在り処が、このやうなところにあることに、共感を持つて読みました。
主人公にとつての現実がリアルなのか、それとも向かうの非現実がリアルなのか、どちらもリアルであるのか、いづれの意味であれ、それが小説の題名の意味だと思ひました。
7。『河童地蔵』:野棲あづこ
この最初の入り方の数行を読んで、ああこれは詩だなと直感しました。
それは、どのやうな詩かといひますと、従ひ、河童の登場する詩なのです。
さうして、その河童といふ名前は、同居する部屋の持ち主に使はれて、その持ち主は、「かつぱ先輩」と呼ばれてゐる。
この河童さんの棲む部屋と其の塵(ごみ)の描写と、雨によつて冠水する洪水の如き其の様子を読むと、これもまた、安部公房の世界を連想するのです。
安部公房の小説も、その実体は、詩的散文であるからです。また、洪水、即ちこの世の破滅、ご破算は、安部公房の重要な主題のひとつです。
さて、安部公房によれば、塵捨て場は、接続の場所ですから、異界と現実が接続される場所なのであり、当然のことながら、この部屋にもチビと呼ばれる、本来は死者である筈の、古い時代に水害をおさめるために人柱になつて死んだ子供が登場します。
この部屋には、やはり時間がないのです。
お地蔵さんになるかつぱ先輩といふ結末は、作者は意識してゐないのではないかと思ひますが、陸と川、土と水の上位接続になつてをります。
これをこのまま考へますと、やはり此の小説も連作が可能で、この塵捨て場の如き部屋に棲み続ける話者である主人公を主人公にして、先々の話も書くことができるのではないかと思ひました。
またしても、おすすめするのは、このアドレスです。:
やはり、これも、今回の編集の主題である「幻想」といふことから生まれた一作だと思ひました。
8。『三輪山』:森山東
一言でいひますと、三輪山といふ山が御神体である聖なる山を巡つて、現実と夢想と、現在と過去とが交代しながら叙述されて、そのくりかへしが話として進行するお話といふことになります。
この現在から過去を追想し、追憶するといふ語り口が、三島由紀夫の愛読者といふ感じが致します。
さうして、最後の一行は、三島由紀夫の絶筆『天人五衰』の有名な最後の一行へのオマージュとなつてをります。
さうして、やはり、最後のところへ来て、自分を捨てた男を恨み、藁人形に針を何度も突きかへす場面は、一寸恐ろしい、おどろおどろしい感じがしました。
それは、周りが、聖なる三輪山の中であるだけに、一層のその呪術と三輪山の神(蛇であつたでせうか)のすまふ神聖な世界との分裂、背反が、そのやうな効果を生んでゐます。
また、そのやうな呪術行為のあとに、一切が忘却されてゐて、それまでのことが夢か現(うつつ)かとなる其の書き方もまた、そのまま上述のオマージュの言葉の効果を一層高めてをります。
読後に知つたところによれば、作者はホラー小説の名手のやうで、さもありなむと思ひました。
早速Kindleにて3冊をダウンロード致しましたが、実は恐ろしくて、まだ未読です。
魔除けのお呪(まじな)ひを唱へてから読まうと思つてをります。