2015年11月28日土曜日

超短篇2:菊と蛸


菊と蛸


朝の電車が橋の上で遅延をした。渡る先の駅で投身自殺があり、橋の上で止まつたままで一時間余が死体の処理に必要だといふ車内放送だつた。

桜木鷹彦は、向かいの席に座る菊姫の美しい脚を、いつもより長く視ることができて幸せだつた。

毎朝眼の前に座るその美しい脚の、いつもみとれる名前の知らぬ所有者を菊姫と、目にした時に名付けたのは、秋と冬の端境の時季の、駅に向かふ途中、いつも通りかかる庭の籬(まがき)の向かうに不図菊の花を眼にした後の、それは、車中での事件であつたからだ。菊の花言葉にある愛情の深さを感じたのだ。

菊姫の時間は奇跡の朝だ、何故ならば、菊姫の美しさからその脚は生まれたが、その脚の美しさは菊姫を生んでゐるわけではないといふ矛盾を、橋の上にゐて、いつもより長く眺めながら味はうことができるから。

嵯峨菊絵は、毎朝電車に後から乗つて来て、目の前の向かうの席に座る若者に気づいてゐた。知られぬやうにこの若者を観察すると、この若者が蛸であることに気づいた。それは、生態学的には、頭が実は胴体であり、胴体の下に脳味噌目玉が付いてゐて、脚が実は脚ではなく腕であつて、腕には吸盤が無数についてゐるのを見たからである。

この蛸は既にして倒錯の生物であつた。

菊絵はこの時とばかりに、バッグの中から包丁を取り出して、蛸の脚の一本の上に包丁を置いて少し手を離すやうにすると、ストンとばかりに包丁は落ちて、そのまま蛸の脚の一本を切落してしまつた。切れ味の良い包丁だ。

菊姫が突然やつて来て、鷹彦の唇を吸つたので、鷹彦は驚いた。もつと吸つて欲しいと思つたので吸ひ返すと、菊絵はもう一度包丁を二本目の脚にストンと落とした。菊絵は、蛸が快楽の声を上げるのを聞いた。菊姫の口吸ひは強烈だつた。鷹彦は唇が菊姫の口の中へと吸ひ込まれてしまふことに抵抗できなかつた。菊絵はもう一つストンと包丁を落とした。快楽の声が上がつた。これを繰り返して、到頭鷹彦は頭である胴体だけになつてしまつてゐる自分を胴体の下から眺めてゐる自分に気づいた。その眼で菊姫を眺めやると、菊姫には8本の脚が吸ひ付いて、体中に吸盤が猛烈な口吸ひをなしてゐるのを見て、蛸の眼と口と胴体は快楽を覚えた。菊絵は快楽の声を上げてゐた。その声を耳にして蛸は一層快楽を覚えて行く余りに、ついに眼と口と胴体に分裂してしまひ、電車の走行が既に再開してゐて、蛸は次の駅のプラットフォームの間の線路に横たはつてゐたのに気づかなかつた。それは一時間余前の投身自殺であつた。

嵯峨菊絵は、快楽でなほ震えてゐる包丁を大切にバッグにしまひ、菊姫となつて、蛸の時間の停止した駅で永遠に下車してゐたのである。





2015年10月13日火曜日

超短篇1:月の呪文


月の呪文

古謡に《月は鏡なり、鏡は月なり》とあり......

ある年の十五夜に起きたことである。

白い背黄青鸚哥(せきせいいんこ)を飼つてゐる。

払暁に向かひ、眠りが浅くなりゆく時に此の鳥の啼き声を聞いた。奇妙な夢なりき……

もはや寿命の終はりが近いのであらう、我が家に来て7年になる。この頃は、歩くのもよろばふ感じがあつて、急に体を動かすなどすると、時折肩から落ちることがある。

この夢で、白い鳥はわたしの体から落ちて、落ちると裸になつてゐて、羽毛の皮はポロリととれ、小さな剥き出しの鳥になつてしまつてゐた。奇妙なことに、顔は羽毛のふさふさとしたままの、白い鳥の顔を被つたといふ顔である。

わたしは驚いて、裸の鳥を拾ひ上げた、手のひらの上で、生きてゐるので安心をする。下を見ると、羽毛の毛皮が落ちてゐて、鳥の毛皮は衣裳のやうに其のままに、中が虚(うろ)になつて、落ちてゐる。

鳥の仮面を被つた裸の鳥を、その衣裳に戻してやらうと、それを拾つて、裸の鳥に被せた、そこで目が覚め、いや、目が覚めたかと思ふと、白い鳥は既にして、再び我が肩にとまつている。

わたしは、白い背黄青鸚哥である。

今かうしてゐても、わたしは肩の上にとまつてゐる。

さうして、また一年を待つている、月の呪文を啼きながら……



2015年10月4日日曜日

『関西魂』(かにたま)を読む(2)


『関西魂』(かにたま)を読む(2)


4。『モテラボ』:松尾佑一

わたしは、この短編集の最初に其の表紙を見て、いいなと思つたのです。これは一体どういふ女性であるのかと、想像を巡らせた。

ところが、この作者の紹介欄をみると、男性名であつて、この表紙も描いたとある。

この方は、やはり女性に違ひないとわたしは思ひますが(あるひはよし男だとしても非常に女性的な繊細さをお持ちの男性なるらむ)、この裏と表との落差に、何かこの方の特色があるのではないかと思ひます。

それは、表紙の絵も、矢印を描いた標識があちこちに散見されて、矢印とは方向を示す標識ですから、これもそのままもつといへば、安部公房の世界に通じてをります。何故ならば、矢印を掲示し、方向を指し示すといふことは、あるモデルを製作して、それを示すことに他ならないからですし、この方の経歴が理工学部の研究者でゐらしたといふことも、やはり、この表紙絵の指し示してゐる通りであると思ひます。

この方を4番目に置いたのは、前の3名の(SFの)作家と同じ列に並んでゐるからで、即ち、(SFではないものの)終わりが開かれてゐて、この登場人物と大学の理工学部を舞台に、やはり連作になり得る作品だと思つたからです。鏡餅といふ名前の面白い柴犬も含めて。

略歴を拝見すると、既にprofessionelでゐらつしゃるので、さもありなむと思ひました。


5。『君が得た楽園について』:冬原あや

柚木といふ美しい若者に対する呼びかけで始まる小説です。

二人称の呼びかけを一人称のわたしがして、その回想の形式で、この若者のことが始まり、その後に、三人称(柚木)とわたしといふ一人称の章が登場して、それぞれの章の長短は別にして、この二つの書き方の章が謂はば交代しながら、最後まで話が進むといふ書き方で、この小説は書かれてをります。

前者は、独白であり、後者は、叙事になつてゐます。

この差異が、話の筋にメリハリを与へてゐるのではないでせうか。

著者紹介欄に、「ボーイズラブをこよなく愛」するとありますので、そのやうな方のお書きになつた小説と、読み終えてから其れを読みますと、確かにさう思ひます。

最後の終わり方は、やはりわたしには安部公房の小説の結末を、大いに連想させました。

この方は、安部公房の読者なのでありませうか。

もしさうならば、もぐら通信をお読み下さると、嬉しい。:http://abekobosplace.blogspot.jp

全く、この小説とは関係はありませんが、わたくしめは、柚木なる草深き里にすまひしてをります。


6。『リアル』:原瑚都奈

著者紹介欄に、「昨日は友達と居酒屋でどっちが美味しそうにご飯を食べられるかを競争しました」とありますので、これは若い方でありませう。(とてもわたしには真似はできないと思ひました。)

人間が何か中間状態にゐて、その曖昧の地帯にただよふところを書いてゐると思ひました。その不安も、快美も、両方を。

それは、最初の一行が、水泳部のプールに浮かび、また潜る主人公の若い女性のことから始まり、最後の一行の、自分が混血である中間状態の人間と自分のなる因をなした父親の見返へす眼を描くところまで、思ひとしては首尾一貫してをり、この方の関心の在り処が、このやうなところにあることに、共感を持つて読みました。

何故ならば、これも、安部公房に通じてゐるからです。もし安部公房の読者でなければ、安部公房をお読み下さると、嬉しい。またもや、このURLをお伝へして、お返しと致します:http://abekobosplace.blogspot.jp

主人公にとつての現実がリアルなのか、それとも向かうの非現実がリアルなのか、どちらもリアルであるのか、いづれの意味であれ、それが小説の題名の意味だと思ひました。


7。『河童地蔵』:野棲あづこ

この最初の入り方の数行を読んで、ああこれは詩だなと直感しました。

それは、どのやうな詩かといひますと、従ひ、河童の登場する詩なのです。

さうして、その河童といふ名前は、同居する部屋の持ち主に使はれて、その持ち主は、「かつぱ先輩」と呼ばれてゐる。

この河童さんの棲む部屋と其の塵(ごみ)の描写と、雨によつて冠水する洪水の如き其の様子を読むと、これもまた、安部公房の世界を連想するのです。

安部公房の小説も、その実体は、詩的散文であるからです。また、洪水、即ちこの世の破滅、ご破算は、安部公房の重要な主題のひとつです。

さて、安部公房によれば、塵捨て場は、接続の場所ですから、異界と現実が接続される場所なのであり、当然のことながら、この部屋にもチビと呼ばれる、本来は死者である筈の、古い時代に水害をおさめるために人柱になつて死んだ子供が登場します。

この部屋には、やはり時間がないのです。

お地蔵さんになるかつぱ先輩といふ結末は、作者は意識してゐないのではないかと思ひますが、陸と川、土と水の上位接続になつてをります。

これをこのまま考へますと、やはり此の小説も連作が可能で、この塵捨て場の如き部屋に棲み続ける話者である主人公を主人公にして、先々の話も書くことができるのではないかと思ひました。

またしても、おすすめするのは、このアドレスです。:


やはり、これも、今回の編集の主題である「幻想」といふことから生まれた一作だと思ひました。


8。『三輪山』:森山東

一言でいひますと、三輪山といふ山が御神体である聖なる山を巡つて、現実と夢想と、現在と過去とが交代しながら叙述されて、そのくりかへしが話として進行するお話といふことになります。

この現在から過去を追想し、追憶するといふ語り口が、三島由紀夫の愛読者といふ感じが致します。

さうして、最後の一行は、三島由紀夫の絶筆『天人五衰』の有名な最後の一行へのオマージュとなつてをります。

さうして、やはり、最後のところへ来て、自分を捨てた男を恨み、藁人形に針を何度も突きかへす場面は、一寸恐ろしい、おどろおどろしい感じがしました。

それは、周りが、聖なる三輪山の中であるだけに、一層のその呪術と三輪山の神(蛇であつたでせうか)のすまふ神聖な世界との分裂、背反が、そのやうな効果を生んでゐます。

また、そのやうな呪術行為のあとに、一切が忘却されてゐて、それまでのことが夢か現(うつつ)かとなる其の書き方もまた、そのまま上述のオマージュの言葉の効果を一層高めてをります。

読後に知つたところによれば、作者はホラー小説の名手のやうで、さもありなむと思ひました。

早速Kindleにて3冊をダウンロード致しましたが、実は恐ろしくて、まだ未読です。

魔除けのお呪(まじな)ひを唱へてから読まうと思つてをります。











2015年9月26日土曜日

『関西魂』(かにたま)を読む



『関西魂』を読む

ある機縁から、関西在住の方達の短編の収録された標記短編集を読みましたので、思ひ、感じたことを、徒然なるままに書かうと思ひます。

わたくしの、怪しうこそものぐるほしけれといふ気持ちが出るかも知れませぬので、ご容赦あれかし。

どの小説も面白く拝読致しました。作者の来歴も全く知らず、作品のみを拝見して、感じたところを述べることに致します。

これは、SF小説だなとおもつたのは、次の3作でした。わたしは多分SF小説が好きなのでせう。

1。『ゾンビーソング』:在神英資(あるかみ・えいし)
2。『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』:新熊昇(しんくま・のぼる)
3。『闇宿る岩』:蒼隼大(あおい・しゅんた)

この3作に共通して抱いた感想は、これは連作の一篇であるか、またはこれが最初の作品であるとすれば、この結構を使つて、そのまま連作(シリーズ)ものが書けるであらうといふことでした。

1。『ゾンビーソング』
この作品の導入部は、半村良の小説のあるものを思はせます。

いつの間にか、読者は読み始めたままの意識で、非現実の世界に足を踏み入れてしまうやうに書かれてをります。現実と非現実が連続してゐる。

さうして、最初の「今日はツイてない日だ」と思ふ一人称の主人公の言葉が、最後まで、一筋の糸になつてつづゐてゐます。このツイていないことの事件の連続は、主人公がゾンビに襲撃されづづける間、スリルがあり、読んでゐて、ある箇所では、恐怖の感情を覚えました。これは、ホラー小説です。

それは多分、話の結構(立て付け)が、ゾンビの棲む街中の描写をして話が進むのに対して、他方、作者は、その街の周辺、周囲にあるものを描かないからではないかと思ひます。この描かない周囲の環境の様子は、作者の手に委ねられてゐて、読者の知らない全体がそこにはあるやうに思はれ、それが冒頭の、これはシリーズものになるのではないかと思ふ理由でもあるのではないかと思ひます。

最後に、ゾンビに追はれて、その途上で救つてもらつて知り合ふことになる男女それぞれ、即ちジンさんいふ年配と思しき男と、主人公が惹かれる亜依加といふ美しい若い娘とのその後の話の展開も、十分にあり得るものと思ひます。ゾンビの街から脱出できたことと、最後にこれら二人の男女が、前者がガットギターを演奏し、後者が歌を歌ひ、主人公がそこにゐて二人の音楽を聴くといふ場面との、この二つの間に作者の置いた、何の説明もなしの、ただ米印を引いただけで仕切つての話の飛躍も、尚そのことを思はせました。

2。『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』
個人的には、この話が一番好きでした。

何が面白かつたかといひますと、その大阪弁の会話がよかつた。それも、古代シリアの王国の貨幣に刻印された女王さまと、大阪に住む若者とが会話をするといふ奇想天外の話が、大阪弁の力があつて、尚面白いものになつたと思ひます。

やはり『関西魂』といふ題名の叢書としてある選集であれば、大阪弁で書いてみるといふのは、ひとつの大切なchallengeではないでせうか。北海道に生まれ育ち、今関東に住む者としては、さう思ひました。

さうして、その話の筋もまた、女王さまの有無をいはさぬ勧めによつて高級ホテルの厨房の料理人募集の記事に応募して、羊肉料理を作る審査試験に、ポケットに潜ませて臨んだこの(大阪弁おおばはんの言葉を喋るけつたいな)古代の女王の助言に従つて、挑戦するといふ若者の話が、実に滑稽で面白いものでした。

最後にこの若者は、女王のレシピが気に入つた審査員の外交官に誘はれて、イエメンへ渡り、そこで女王さま仕様の羊肉料理の料理人として職を得て働き、また説明は省きますが、貨幣の女王もイエメンの博物館に収まってゐて、そこを訪れた若者が女王を見つけ、二人が大阪弁で会話するといふことがまた最後には始まるといふ此の終はり方が、終はるのではなく、開かれてゐて、自作への期待を覚えてしまふのです。

続編を書いてくださると、嬉しい。

3。『闇宿る岩』
この話もホラーSFです。

最初の導入部は、既に読者には承知の人間関係が前提に書かれてゐますので、尚これは連作のうちの一篇だなと思つた次第です。たとへ、さうでなくとも、そのやうな一篇から連作の生まれる結構であると思ひました。

登場人物も多彩で、広く話の展開する気配が濃厚にあります。

岩が女性の性器を形どつたといふ設定ですので、何か古代めいた世界との交流も、また性愛の話もありさうで、読みながら、想像を刺激されること頻りでした。

やはり、この作品も、上記1の『ゾンビーソング』と同様に、周辺が不明、経緯が不明の話ですから、一層さう思つたのでありませう。

この話も最後は開かれてゐる話です。

さうしてみますと、『ゾンビーソング』も同様だといふことができます。

即ち、この3作は、一回限りのコントではないといふことです。(他の作家の話がコントだといふのではありませぬ。)

この話も先を読みたいと、『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』の次に思つた作品ですし、『ゾンビーソング』もさう思つてをります。

しかし、『闇宿る岩』も『ゾンビーソング』も怖いなあ。わたしは、やはり明るい笑ひのある話が好きなのであるなあと、自分の好みを知つたことが収穫でありました。

しかし、もしわたしが小説を書いたらと思ふと、多分明るい小説はかけずに、ホラーかどうかは別にしても、闇夜の小説になるのでせう。この3つの作品は、そんなことを思はせてくれました。

さて、今回の主題は、幻想といふことですので、上の3作以外のすべての作品もまた同様に、現実と非現実の間にゐる主人公を描いてをります。

以下に、ひとつひとつの感想を述べたいと思ひます。

                            (続く)


2015年9月11日金曜日

三島由紀夫が文学と社会の関係を、自分のこととしてどのやうに考へたか



三島由紀夫が文学と社会の関係を、自分のこととしてどのやうに考へたか

「求道する文人の悲願(2) 『戦中派の死生観』 (吉田満 著)」:

これは、若松 英輔さん(批評家)といふ方の吉田満の同著についての感想を書かれたものです。

この文章は、幾つも大切なことを述べてゐる文章だと一読思ひました。そのうち、三島由紀夫についての箇所を以下に抜粋して、お伝へします。文中彼とは、『戦中派の死生観』の著者吉田満のことです。:

一読して明らかなように彼は達意の文章家だが、文学者ではない。職業として彼は最後まで銀行家だった。日本銀行に勤めていた吉田は、大蔵省に勤務していた頃からの三島由紀夫と交流があった。三島は当時すでに小説を発表していてその名前も知られ始めていた。そうした三島があるとき吉田に「自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ」と語ったあと、こう続けた。
「なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場であるとは到底思えない。自分の社会性を思うように満たせるためには、はるかに広い場が必要なのだ」(「三島由紀夫の苦悩」本書八七頁)
 語った本人はのちに作家として立ち、日本だけでなく世界に知られるような書き手になり、三島が考える「社会」と結びつきながら執筆を続けた。しかし、この三島の言葉を字義通りに実践したのはむしろ、吉田の方だった。


この三島由紀夫の考へと其の言葉は、そのまま安部公房を思はせます。


何故ならば、安部公房もまた文壇の狭隘を嫌ひ、一生これと距離を置き、三島由紀夫の死後1970年以降に立ち上げた安部公房スタジオの活動がどんなに表立つて華やかに見えやうともさうであり、即ち反時代的であつて其の中に此の距離を含み、さうして、特に1980年以降の最晩年には箱根の仕事場に籠つて隠棲する程に、自分の求める「社会性」と「広い場」の探究に徹底してゐるからです。

この二人の言語藝術家の共通項は幾つもありますが、その一つは、このやうに、時代に対して孤立を選択するほどに反時代的であり、反骨であつたといふことでありませう。

2015年8月11日火曜日

三島由紀夫の『命売ります』を読む


三島由紀夫の『命売ります』を読む


三島由紀夫の『命売ります』が、何故かよく売れてゐるとのネットの記事を読んだ。

株式会社筑摩書房(所在地:東京都台東区、代表取締役社長:山野浩一)は1998年に刊行した三島由紀夫『命売ります』(ちくま文庫)が売上好調につき、2015年7月に7万部を重版しました。
2015年8月6日現在、累計で11万1,200部(20刷)を発行しており、半数以上をこの7月に発行したこととなります。」とのことです。


面白い社会現象だと思ひ、また何よりも現在三島由紀夫の十代の詩を論じてゐることから、早速アマゾンにて註文、昨日着、同日夜読了した次第。

あつといふまに読みました。面白かつた。

この作品は、ちつとも古くない。だから売れるのではないでせうか。

どこが古くないかといふと、やはりその主人公の生と死を、もつといへば
これは転生輪廻の物語だからではないでせうか。

さうして、エロティックな場面もいつくもあるし、ヒッピーやフーテンや全共闘などといふ言葉が出てくるけれども、これらの語彙は風化して塵芥(ちりあくた)になりましたが、しかしそれに代わる塵芥の語彙が流行してゐて、この流行に対して、三島由紀夫がこの小説の中に書いてゐる警句や皮肉めいた観察の言葉が、今でも(上にいいましたやうに)少しも古くない。

やはり、読まれる理由が、今あるやうにおもひます。

そして、興味深かつたことは、三島由紀夫の十代の詩に歌われてゐる語彙や形象や譬喩(ひゆ)が出てくることでした。このやうな語彙といふものがやはり三島由紀夫の世界を作るのです。

印象的な一例を挙げれば、電車の中の吊り手の揺れてゐるさまとか。わたしの読んだちくま文庫の82ページ、第7章の最後の行にこれがありますが、同じことを歌った9歳の詩が決定版第37巻の34ページに『電車の中』という短い詩があつて、この小説から逆算してこの詩の解釈もしようと思へば、この詩の前後の詩を斟酌した上であれば、十分可能だと思はれます。それは、次のやうな詩です。


「電車の中

 でんしやの中のつり手
 ブラブラゆれる

 でんしやの中のつり手
 止まる度にゆれる」


これ以外にも、子供のころから十代に亘つて書いた、三島由紀夫の詩によく歌われてゐる言葉と形象が登場致します。

さう、三島由紀夫が子供のころ好きだったアラビアンナイトも出てきました。かういふところは、少年平岡公威の感情があらわだといふことなのでせう。しかし、そのやうな子供の頃の感情を盛り込んだ作品を、娯楽作品のごとき作品とは言へ、当時版元だつた集英社に其の著作権を金で売るとは。全く割り切った三島由紀夫です。

この心情と論理も、すでに小説の中に織り込み済みである以上、まあさうやつて、楯の会運営のための資金を捻出するための小説だつたとはいへ、しかし同時に、そのやうな子供のころ親しんだ千夜一夜の話を入れることによつても、自分のこころを救つたのだと思ひます。このやうに考へますと、読み方によつては、この作品の娯楽性を裏切つて、痛々しいといへば、誠に痛々しい小説です。

主人公の名前の羽仁男といふのは、当時一世を風靡した左翼の学者、羽仁五郎のもぢりか当てつけかと、思ひましたが、如何でせうか。まあ、つまりこの主人公は、今のこの2015年の此の世の、支那共産党の軍事的脅威に対抗するために必要とする安保法制の其の改正論の、当時と同じ(上に述べたやうな)左翼の、マスコミ(近頃はマスゴミといふらむ)の極端な偏向報道の中にあつて、結果として自分だけは殺されることのないと思ひこんでゐる、即ち左翼連中のと偽善の最初の無知蒙昧を前提にして書いてゐるからです。その偽善の論理を捻つて、即ち自分の命は決して売ることは思ひもしないで、自衛隊員の死を戦争のリスクだといふのと当時も同じ左翼の偽善をひつくり返して、命売りますといふ主人公の設定にしたからです。

それで世相を斬ることができませう。さうして、この作者の剣は、今も世相を斬り続けてゐるのではないでせうか。


だから、売れるのではないかな。とさうおもつた次第です。

三島由紀夫の辞世の歌ふたつのうちの最初の歌に響く鞘鳴りの音は、今も此の世に響いてゐるのです。



2015年7月26日日曜日

【ショーペンハウアーの箴言83】精神がもぬけの殻である人間は、


【ショーペンハウアーの箴言83】


【原文】

Alle Formen nimmt die Geistlosigkeit an, um sich dahinter zu verstecken: sie verhüllt sich in Schwulst, in Bombast, in den Ton der Überlegenheit und Vornehmigkeit und in hundert anderen Formen.


【和訳】

精神がもぬけの殻であれば、その形式の後ろに自己を隠さうとして、ありとあらゆる形式をとるのだ。即ち、精神のもぬけの殻は、誇張や大言壮語や優越と高貴の調子やその他の幾百もの形式の中に自己を隠すものである。


【解釈と鑑賞】

これも前の二つからの続きで、悟性の話から、今度は理性の上にある精神の話といふわけです。

まあ、これも、辛辣なるショーペンハウアーの洞察といふべきでありませう。







【ショーペンハウアーの箴言82】理解能力と理解能力の喪失の因果関係


【ショーペンハウアーの箴言82】


【原文】

Viele verlieren den Verstand deshalb nicht, weil sie keinen haben.


【和訳】

多くの人間は、理解(悟性)を失ふが、その理由は、理解(悟性)を持つてゐないからなのではないからである。


【解釈と鑑賞】

これも理解続き、悟性続きの箴言です。


多くの人間は、理解(悟性)を失ふが、その理由は、理解(悟性)を持つてゐるからなのである。

と論理を単純化させてみたくなる一行です。

また、おめえら最初から悟性なんぞはお持ちではないのでござんしょ、と訳してみたくもなります。

その否定をあへて二重否定にしたところに、妙味あり。

妙味を逆説、Ironieといつてもよいでせう。







【ショーペンハウアーの箴言81】悟性と教養


【ショーペンハウアーの箴言81】


【原文】

Natürlicher Verstand kann fast jeden Grad von Bildung ersetzen, aber keine Bildung den natürlichen Verstand.


【和訳】

自然に生まれる理解(悟性)は、ほとんど教養のどの階梯にも置き換えられるものだが、しかし、教養は、自然から生まれる理解(悟性)に置き換えることはできない。


【解釈と鑑賞】

さう、教養を得るには、自然に理解している範囲を踏み越える必要がありませう。

哲学用語を敢へて使へば、理性を用ゐ、精神を活発にして、自分の頭でものを考へ、独自の道を行く以外にはありません。

これもまた、日本人の自称哲学者、自称知識人、自称文化人には、耳の痛い言葉でありませう。






【ショーペンハウアーの箴言80】華美な言い廻しと小さな思想


【ショーペンハウアーの箴言80】


【原文】

Schwierige und pomphafte Phrasen verhüllen winzige, nüchterne oder alltägliche Gedanken.


【和訳】

難しい、そして華美な語句や言い廻しは、小さくて、冷静で、或いはまた日常的な思考思想を覆い隠す。


【解釈と鑑賞】

前者、即ち「難しい、そして華美な語句や言い廻し」と、後者、即ち「小さくて、冷静で、或いはまた日常的な思考思想」の関係を述べたもの。

日本人の自称哲学者、自称知識人、自称文化人には、耳の痛い言葉でありませう。






2015年7月5日日曜日

【カフカの箴言79】官能の愛と天上の愛



【カフカの箴言79】


【原文】

Die sinnliche Leibe täuscht über die himmlischen Liebe hinweg; allein könnte sie es nicht, aber  da sie das Element der himmlischen Liebe unbewußt in sich hat, kann sie es.


【和訳】

官能的な愛は、天上的な愛を超えて、その向かうに行けるものと言つて欺くのだ。しかし、官能的な愛は、それができないことがあらう。しかし、天上的な愛の要素を其の内に無意識に持つてゐるので、それができるのである。


【解釈と鑑賞】


この考への鍵は、二つめの文の無意識と、天上的な愛の要素を其の身内に最初からもつてゐるといふことでありませう。


【ショーペンハウアーの箴言79】傷つけぬ権利


【ショーペンハウアーの箴言79】


【原文】

Jeder hat das Recht, alles zu tun, wodurch er keinen verletzt.


【和訳】

誰もが、それをすることによつて誰をも傷つけないもの全てを行ふ権利を有する。


【解釈と鑑賞】

このやうなことをしも権利といふらむ。

権利には権利で対抗しなければならないのが、法律の世界といふことなのでありませう。

私は、やはり、南海の海辺で無心に遊ぶ土人の子供でありたい。




2015年6月27日土曜日

【カフカの箴言78】安部公房に通ずるカフカのいふ精神


【カフカの箴言78】


【原文】

Der Geist wird erst frei, wenn er aufhört, Halt zu sein.


【和訳】

精神が、停止する状態であれば、いつでも精神はまづもつて自由になるのだ。


【解釈と鑑賞】


かういふことを書くカフカがゐるので、安部公房はカフカが好きになるのであらうなとおもはれる一行です。


競争とは無縁なカフカの精神です。

【ショーペンハウアーの箴言78】願ひとは叶ふものなのか?


【ショーペンハウアーの箴言78】


【原文】

Überhaupt aber ergeht es uns im Leben wie dem Wanderer, vor welchem, indem er vorwärts schreitet,  die Gegenstände andere Gestalten annehmen, als sie von ferne zeigten, und sich gleichsam verwandeln, indem er sich nähert. Besonders geht es mit unseren Wünschen so.


【和訳】

そもそも、しかしながら、人生の中にあつては、我々の身に起こることといへば、それは、旅人の身に起こることも同然なのであり、つまり、旅人といふ者がゐて、旅人が行進して前へ進むことによつて、旅人の前では色々な対象が其の他の様々な姿をとるわけであるし、対象は其の姿を其のようなものとして遠くから示すのであらうし、そしてまた、旅人が近づゐて来ることによつて、色々な対象は言はば姿を変ずるのであり、そのような旅人の身にとつてさうであるやうなものなのである。特に、我々の願いや希望というものについていふならば、まさしくさうである。


【解釈と鑑賞】

わたしたちを旅人に喩えて、希望や願いに近づかうとしても、それは最初に本来思つてゐたものとは姿を変じて、われらが眼前に姿を現わすといふのです。

然りといふべきでありませう。

今ここで一言でいへば、人生はもどかしいといふことになりませうか。






2015年6月23日火曜日

【カフカの箴言77】交際と自省



【カフカの箴言77】


【原文】

Verkehr mit Menschen verführt zur Selbstbeobachtung.


【和訳】

人間たちとの交際、これが、自省へと誤り導くのだ。


【解釈と鑑賞】


この自省へと誤り導くといふ此の誤り導くことが、よいものであるか、悪いものであるか、両方に解釈が可能です。

これを、一種の逆説ととり、カフカが此れを楽しんでゐると取れば、前者であり、文字通りに誤り導くととれば、後者です。

自省とは、しかし、カフカの常でありませうし、カフカの言葉は其処から出てくるわけですから、これは前者ととるのがいかも知れません。

ドイツ語でみると、最初の交際と訳したVerkehrtのver-と、誤り導くと訳したverführenver-と、この前綴の意味する連想が働いているものと思ひます。

また、散文としてあるにもかかわらず、恰も詩のやうに韻を踏んでいるといふことにもなります。


【ショーペンハウアーの箴言77】現在の良き時間を如何に大切にするか


【ショーペンハウアーの箴言77】


【原文】

Es ist töricht, eine gute Stunde sich zu verderben aus Überdruss über das Vergangene oder Besorgnis wegen des Kommenden.


【和訳】

過去についての不愉快から、或いはまた将来来るもののことで思ひ患ふことで、いい時間を台無しにすることは、愚かなことである。


【解釈と鑑賞】

これは、時間と感情に関する考察でありませう。そのやうに一言でいふことができます。

時間とは最初から良きものなのか、それとも、よい時間があつたことを前提にしている此の一文であるのか、それによつて、解釈はふたつあり得ませう。

törichtを愚かと訳しましたが、しかし、この語は相当に辛辣に聞こえます。






2015年6月13日土曜日

【カフカの箴言76】消極的な決心と洪水の関係



【カフカの箴言76】


【原文】

Dieses Gefühl : hier ankere ich nicht− und gleich die wogende, tragende Flut um sich fühlen!.


【和訳】

この感情:”ここを水浸しにしてなるものか”、そして直ちに、自分の周りに大波が波打ち、ひとを攫(さら)つて行く洪水を感じるのだ!


【解釈と鑑賞】


さう思つたら、そのやうになるといふ教訓でありませうか。

ankerenという綴りは、Ankernと解して、さう訳しました。

そうであれば、その後の洪水の喩えにつながることができます。

”ここを水浸しにしてなるものか”と訳しましたが、

”わたしだつたら、ここを水で一杯にすることはない”といふ訳もあると思ひます。

ここを水で一杯にする、といふ此の感覚、これが日本人には一寸ぴんと来ないやうに思ひますが、如何でせうか。

他の用例をも見てみますと、自分が何かそちらの方に向かふ、身を振り向ける、お願いをする、声に出しておーいと呼びかけるといふ意味であることが判ります。


としてみれば、ここでは、そのやうな行為をしないといふ意味の過カフカの箴言であります。

【ショーペンハウアーの箴言76】無為なる歩行なり、散歩とは、


【ショーペンハウアーの箴言76】


【原文】

Von einem, der spazieren geht, kann man niemals behaupten, er mache einen Umweg.


【和訳】

散歩をしてゐるにとについては、廻り道をしてゐる、遠廻りをしてゐるとは主張することは決してできないのである。


【解釈と鑑賞】

ひとは毎日最短距離を求めて生きているやうに見えます。

実際そのやうなひとばかりでありませう。

しかし、この箴言に触れたあなたは、散歩をするのが最善。

そこには、競争はありません。従ひ、最短距離も、効率も、生産性も、なにもなく、ただ景色を楽しみ、歩くことそのものを楽しむ自分がゐることを楽しむのです。

全く、無為なる歩行(das Gehen)でありませう。





2015年6月6日土曜日

【カフカの箴言75】人であることを試金石にせよ



【カフカの箴言75】


【原文】

Prüfe dich an der Menschheit. Den Zweifelnden macht sie zweifeln, den Glaubenden glauben.


【和訳】

自分を、人であることを以つて試しなさい。人であれば、このことは、疑う者を疑はせ、信じる者を信じさせるのです。


【解釈と鑑賞】


人であることを訳したドイツ語の最初の意味は、人類です。次に人間性といふ訳語が辞書には出て参ります。その次には、人道といふ訳語が充てられてゐます。

人であることといふドイツ語の後綴の-heitといふ意味から言つて、人間の性質といふ意味、人間といふことといふ意味ですから、やはり自分自身が人間であることを思つて、我が身を返りみれば、疑ふ者も信ずる者も共に自分の姿だといふことをカフカは言つてゐるのでありませう。


人であることを以つてと訳した此の以つてと言ふドイツ語の前置詞は、anといふ英語ならばonに相当する前置詞で、ぢかにそれに触れて、それを試金石にしてと言ふ意味です。






【ショーペンハウアーの箴言75】みなの意見と洞察の有無の関係について


【ショーペンハウアーの箴言75】


【原文】

Die öffentliche Meinung ist eine Ansicht, der es an Einsicht mangelt.


【和訳】

公の意見といふものは、洞察を欠いた見解のことである。


【解釈と鑑賞】

これも、また、皮肉の効いた、しかし、よく世間に通用する、ショーペンハウアーの言葉であり、洞察です。

また、これを、わたしの言葉で一言でいへば、通俗といふ此の一語に尽きます。

公(おほやけ)と漢字で書けば一見難しさうでありますが、やまとことばで言ひ換へれば、誰も彼もがいふやうなこと、言つてゐること、さういふ考えは、といふことです。

この箴言もまた、真理でありませう。





2015年5月31日日曜日

【カフカの箴言74】贋物の信仰について



【カフカの箴言74】


【原文】

Wenn das, was im Paradies zerstört worden sein soll, zerstörbar war, dann war es nicht entscheidend; war es aber unzerstörbar, dann leben wir in einem falschen Glauben.


【和訳】

天国で破壊されずにはゐないものが、実際に(過去にをいて此の世で)破壊し得るものであつたといふならば、それは、決定的なことではなかつたのだ。といふのも、それが、しかし、(過去にをいて此の世で)実際に不壊のものであつたならば、となると、わたしたちは、間違った信仰の中に生きてゐることになるからだ。


【解釈と鑑賞】

この世といふ言葉は文字にはなつてをりませんが、天国と来れば、やはり今の此の世を思ひ、それを前提にこの箴言を、カフカは書いてをりますから、そのやうに補つて訳した次第です。

時間の無い天国と、時間の有る此の世の対比。これと、壊なるものと不壊なるものとの対比。前者の世界で、破壊されるものが、この世で破壊されたという過去の事実があれば、それは大したことでは無い、さうではなくて、この世に不壊なるものがあれば、それこそが可笑しいのであつて、さう勘違いをすると、その人は信仰のあるやうに思つてゐるが、贋の信仰を信じてゐるのだと言つてゐるのです。

カフカの論理展開はいつも一見何回で、この信解もさうですが、しかし、そのこころは誠に単純であると思ひます。

カルトの跳梁跋扈してゐる今の日本には、誠に相応しい箴言であると思ひます。




【ショーペンハウアーの箴言74】何故わたしたちはお互いを利用し合ふのか


【ショーペンハウアーの箴言74】


【原文】

Bei manchem ist es am klügsten zu denken: Ändern werde ich ihn nicht; also will ich ihn benutzen.


【和訳】

多くのひとの場合、かう考えるのが最も賢いことである。即ち、わたしは彼を変えることはしない。それ故に、わたしは彼を利用したいと思ふのだ。


【解釈と鑑賞】

これも、また、皮肉の効いた、しかし、よく世間裏側に通用する
ショーペンハウアーの言葉であり、心理的洞察です。

これを知らぬ人間の発言は、見かけはどのやうに晴れやかに見えても、それは偽善であるといふことになりませう。





2015年5月23日土曜日

【カフカの箴言73】自己の食卓との差異を喰らふ



【カフカの箴言73】


【原文】

Er frißt den Abfall vom eigenen Tisch; dadurch wird er zwar ein Weilchen lang satter als alle, verlernt aber, oben vom Tisch zu essen; dadurch hört dann aber auch der Abfall auf.


【和訳】

彼は、自分の食卓の塵(ごみ)を貪り食ふ。といふのも、成程、それによつて、少しの間はみなよりも満腹になるからであるが、しかし、上にある食卓から取つて食べたといふことを(それが習慣であるにせよ、その習慣を)忘れるからである。といふのも、それによつて、すると次に、しかし、その塵(ごみ)もまた、止む(終わりになる、無くなる)からである。


【解釈と鑑賞】

Abfallを塵(ごみ)と訳しましたが、普通はこの名詞が塵を意味するときには大抵複数形で使われます。

さうであれば、これを差異と訳してもいいやうに思ひますが、それであるとまた日本語になりません。

塵=差異だと思つて、この文をお読み下さい。

これは、このまま安部公房の世界にいても少しも可笑しくない箴言になつてをります。


大事なことは、カフカが、自分の食卓との距離、差異、その垂直方向の落差を食らふといつてゐることです。この垂直方向の落差を0にすることが、おそらくは、さうして間違いなく、カフカが小説を書くといふことであつたのです。

【ショーペンハウアーの箴言73】死後、お前は何になるのか


【ショーペンハウアーの箴言73】


【原文】

Nach deinem Tod wirst du das sein, was du vor deiner Geburt warst.


【和訳】

お前の死んだ後になって、お前の生まれる前であったものに、お前はなるのだ。


【解釈と鑑賞】

これも、この通りでありませう。



2015年5月17日日曜日

【カフカの箴言72】一個の人間と主観と客観との関係について



【カフカの箴言72】


【原文】

Es gibt im gleichen Menschen Erkenntnisse, die bei völliger Verschiedenheit doch das gleiche Objekt haben, so dass wieder nur auf verschiedene Subjekte im gleichen Menschen rückgeschlossen werden muß.


【和訳】

同じ人間の中に、複数の認識があるが、しかし、全く異なつてゐるにも拘らず、同じ客体(客観)を有してゐる複数の認識があり、その結果、再び、唯様々に異なる主体(主観)へと、同じ人間の中で、(結果から原因を推論する)帰納法によって推論されねばならないのだ。


【解釈と鑑賞】

これは、一人の人間の中に様々な人間がゐると、外にゐる他者からはさう見えるけれども、実際にはその一人の人間の中に様々な人間がゐるのではなく、一個の客体(対象)があるだけなのであつて、その多様な外面から、内面の複数の主体の存在することを機能することになつてしまふといふ、カフカの観察の結果の事実を述べてをります。




【ショーペンハウアーの箴言 71/72】仮面舞踏会で被つた仮面を人間が外すときは


【ショーペンハウアーの箴言71/72】


【原文】

Am Ende des Lebens werden wie bei einem Maskenball, die Masken abgesetzt.


【和訳】

人生の終わりに当たって、仮面舞踏会でのように、仮面は外されるのだ。


【解釈と鑑賞】

これも、この通りでありませう。



ショーペンハウアーもまた、デカルトの名前を挙げるときにはいつも、聡明なるデカルトと呼ぶことから言つても、後者がバロツクの哲学者であつたことも考へあはせますと、前者もまたバロツクの哲学者であるといふことができませう。

仮面は、バロックの主題でもあり動機でもあるからです。

【カフカの箴言70/71】人間関係は一つである



【カフカの箴言70/71】


【原文】

Das Unzerstörbare ist eines; jeder einzelne Mensch ist es und gleichzeitig ist es allen gemeinsam, daher die beispiellos untrennbare Verbindung der Menschen.



【和訳】

不壊なるものは、一個の或るものである。といふのは、どの個々の人間も、これなのであり、そうして同時に、これは、皆に共通していることなのであり、それ故に、例の挙げようのない程に分離し難い、人間同士の結びつきなのである。



【解釈と鑑賞】

前の箴言との関係で読むと尚味わひのある箴言でありませう。

人間とは関係に生きる生き物だと、カフカは言つてゐるのです。

これが、何故安部公房がカフカを終生好んだかといふ大きな理由の一つでありませう。


一個の或るもの、とは、全体が備わつてゐるといふ意味です。若い安部公房ならば、存在と呼んだでありませう。

【ショーペンハウアーの箴言70】この世は巨大な仮装舞踏会


【ショーペンハウアーの箴言70】


【原文】

Unsere zivilisierte Welt ist nur eine große Maskerade.


【和訳】

我々の文明化した世界は、単なる一個の巨大なる仮装舞踏会である。


【解釈と鑑賞】

これも、この通りでありませう。

この巨大なる仮装舞踏会を開催し、その中に生きる人間の姿を、ある箴言の小話では、ヤマアラシという針を全身に持っている小さな動物に例えて、お互いにチクチクとやりあはないやうに適度の距離を以って生きる姿として書いてをります。

その主著『意志と表象としての世界』での思想のよれば、この仮装舞踏会は、互いの個人の意志が衝突しないように生きるための舞台装置の一つであるといふことになりませう。

また、舞踏会でありますから、踊らねばならないことになるでせう。

トーマス・マンの『トニオ・クレーガー』の一節、わたしは眠りたいのに、お前は踊らねばならないといふのか、という一節を思ひだします。

本物の藝術家や哲学者は、いつも物事の実相を観るものだと思ひます。





2015年5月2日土曜日

【カフカの箴言69】完璧な幸福の可能性は、そこへ至らぬとする努力によって成就する



【カフカの箴言69】


【原文】

Theoretisch gibt es eine vollkommene Gluecksmoeglichkeit: An das Unzerstörbare in sich glauben und nicht zu ihm streben.



【和訳】

理論的には、完璧な幸福の可能性はある。即ち、壊れ得ないものを、自分自身の中で信ずること、そして、その不壊なるものに努力して近づかうとはしないことだ。


【解釈と鑑賞】

これも、カフカらしい箴言というべきでありませう。

この矛盾をカフカは生きたということになります。あるいは、これは、カフカの目には矛盾とは映らなかったのではないでせうか。


【ショーペンハウアーの箴言69】人間より犬だ、誠実な生き物は


【ショーペンハウアーの箴言69】


【原文】

Der Hund wird zu Recht als Inbefriff der Treue betrachtet. Wo denn sonst kann man vor der endlosen Verstellung, der Falschheit und dem Verrat des Menschen Zuflucht finden, wenn nicht beim Hund, dessen ehrliches Wesen ohne Misstrauen betrachtet werden kann.


【和訳】

犬は、正(まさ)しく誠実の真髄とみられる。そうでなければ、一体全体、人間の際限の無い虚偽と不実と裏切りを前にして、逃げ場を見つけることができようか、もし犬にでなければ、その誠実な生き物は、不審無くして見ることができないだろうに。


【解釈と鑑賞】

前の箴言で、犬が好きだと明言した此の哲学者の次なる箴言です。

これも犬の性質を言い当てていると同時に、いつものショーペンハウアーですから、当然に人間へのあてつけになっております。