2015年9月11日金曜日

三島由紀夫が文学と社会の関係を、自分のこととしてどのやうに考へたか



三島由紀夫が文学と社会の関係を、自分のこととしてどのやうに考へたか

「求道する文人の悲願(2) 『戦中派の死生観』 (吉田満 著)」:

これは、若松 英輔さん(批評家)といふ方の吉田満の同著についての感想を書かれたものです。

この文章は、幾つも大切なことを述べてゐる文章だと一読思ひました。そのうち、三島由紀夫についての箇所を以下に抜粋して、お伝へします。文中彼とは、『戦中派の死生観』の著者吉田満のことです。:

一読して明らかなように彼は達意の文章家だが、文学者ではない。職業として彼は最後まで銀行家だった。日本銀行に勤めていた吉田は、大蔵省に勤務していた頃からの三島由紀夫と交流があった。三島は当時すでに小説を発表していてその名前も知られ始めていた。そうした三島があるとき吉田に「自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ」と語ったあと、こう続けた。
「なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場であるとは到底思えない。自分の社会性を思うように満たせるためには、はるかに広い場が必要なのだ」(「三島由紀夫の苦悩」本書八七頁)
 語った本人はのちに作家として立ち、日本だけでなく世界に知られるような書き手になり、三島が考える「社会」と結びつきながら執筆を続けた。しかし、この三島の言葉を字義通りに実践したのはむしろ、吉田の方だった。


この三島由紀夫の考へと其の言葉は、そのまま安部公房を思はせます。


何故ならば、安部公房もまた文壇の狭隘を嫌ひ、一生これと距離を置き、三島由紀夫の死後1970年以降に立ち上げた安部公房スタジオの活動がどんなに表立つて華やかに見えやうともさうであり、即ち反時代的であつて其の中に此の距離を含み、さうして、特に1980年以降の最晩年には箱根の仕事場に籠つて隠棲する程に、自分の求める「社会性」と「広い場」の探究に徹底してゐるからです。

この二人の言語藝術家の共通項は幾つもありますが、その一つは、このやうに、時代に対して孤立を選択するほどに反時代的であり、反骨であつたといふことでありませう。

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