2014年12月27日土曜日

【カフカの箴言49】鰯の頭は信心ではない



【カフカの箴言49】鰯の頭は信心ではない


【原文】

An Fortschritt glauben heisst nicht glauben, dass ein Fortschritt schon gesehen ist. Das wäre kein Glauben.


【和訳】

進歩を信じることは、一つの進歩が既に起こったということを信じることを意味しているのではない。それは、信仰ではないという言って良いだろう。



【解釈と鑑賞】

これも、お題目を唱え、腐った鰯(いわし)の頭を、鰯の頭も信心からといって念仏のように唱えれば何か救済があるかのごとくに錯覚している日本人の、このカフカの箴言に対応する格好の格言があるように、そうして後者は前者とは丁度その意味するところが全く逆であるのだが、しかし、そのような愚かな信というものは、どうも今でも至るところにあり、これが人間の愚かな姿であると、カフカ同様に、わたしにも思われる。





【カフカの箴言48】王様と急使



【カフカの箴言48】王様と急使


【原文】

Es wurde ihnen die Wahl gestellt, Könige oder der Könige Kuriere zu werden. Nach Art der Kinder wollten alle Kuriere sein. Deshalb gibt es lauter Kuriere, sie jagen durch die Welt und rufen, da es keine Könige gibt, einander selbst die sinnlos gewordenen Meldungen zu. Gerne würden sie ihrem elenden Leben ein Ende machen, aber sie wagen es nicht wegen des Diensteides.


【和訳】

彼らには、王様になるか又は王様たちの急使になるかという選択が与えられた。子供達の流儀によって、すべての者たちは、急使になりたいというのである。それ故に、純粋な急使というものが存在し、これら急使は世界を通って狩りをし、そして王様たちなどどこにも存在しないので、互いに自分たち同士で、無意味になった伝達事項(メッセージ)を叫び合うのである。もし出来るならば、喜んで、彼らはその悲惨な生活を喜んで終わりにするだろうが、しかし実際には、奉仕(サービス)の誓約、誓いの故に、それを敢えて行うことはないのだ。


【解釈と鑑賞】

これも、カフカの会社員の生活から生まれた箴言のように思われる。

この箴言は、わたしにカフカの超短編を想起させた。やはり、秦の始皇帝の急使が派遣されて、世界中を走って行く、そのような小説であったと思う。目的地には到達できない急使ではなかったろうか。

最後の一行の奉仕の誓約とは、勿論雇用契約のことである。



【カフカの箴言47】存在することの二つの意味



【カフカの箴言47】存在することの二つの意味


【原文】


Das Wort》sein《 bedeutet im Deutschen beides: Dasein und Ihmgehoeren.


【和訳】

》存在(すること)《という言葉は、ドイツ語では、両方のことを意味する。即ち、現存在(今現にここにこうしてゐるといふこと)と、その現存在に帰属しているということである。 


【解釈と鑑賞】

現存在という言葉の語幹に存在という言葉が入っているので、二つの意味のうち前者については、その通りです。

後者については、ふたつ解釈があり得て、現存在に帰属することと解釈するか、または存在に帰属することと解釈するか、いづれもあり得ます。

しかし、どちらに解釈しても、結局存在に帰属するという意味であることには変わりがありません。


【ショーペンハウアーの箴言49】宗教と国家:松葉杖と憲法


【ショーペンハウアーの箴言49】宗教と国家:松葉杖と憲法




【原文】

Die Religion ist eine Kruecke für schlechte Staatsverfassungen.


【和訳】

宗教は、拙劣なる国家の憲法のための松葉杖である。

【解釈と鑑賞】

これもその通りの譬喩で、ここで言っているのは、近代国家は不完全であること、国家が何もかもすべてを取り仕切ることはできないことを言っています。

その間隙と、その間隙から漏れ落ちるものを掬い取るのが、宗教だということ、そして、それで、まあ近代国家もなんとか松葉杖たる宗教に頼って歩いて行けるということなのです。

その国の民族と国民にとって、宗教は大切です。

ショーペンハウアーの譬喩はいつも透徹しております。その主著『意志と表象としての世界』にあっても、この考え通りに、そもそも国家とは、必要悪なるものとして書かれています。これは、これで、富裕の商人の息子として生まれた此の哲学者の持つ辛辣な眼でありましょう。



【ショーペンハウアーの箴言48】宗教と森の伐採


【ショーペンハウアーの箴言48】宗教と森の伐採




【原文】

In früheren Jahrhunderten war die Religion ein Wald, hinter welchem Heere halten und sich decken konnten. Aber nach so vielen Fällungen ist sie nur noch ein Buschwerk, hinter welchem gelegentlich Gauner sich verstecken.


【和訳】

比較的早期の数百年間は、宗教は一個の森であって、その後ろでは、大勢が駐留し、身を防ぎ、保証を得ることができた。しかし、かくも多くの木々が伐採されると、宗教は、かろうじて一個の藪であり、その後ろには、時には詐欺師が隠れているのである。

【解釈と鑑賞】

このような森と伐採の譬喩は恐らくヨーロッパに、そして多分の森の多いドイツにあっては、一般的に通じる譬喩であるものだと思います。

近代、現代の宗教には詐欺師が隠れているというのは、全くその通りで、それはカルトと呼ばれている通りです。

ショーペンハウアーの譬喩はいつも透徹しております。その主著『意志と表象としての世界』にあっても同様の通りに。


【ショーペンハウアーの箴言47】信仰と知識、狼と羊


【ショーペンハウアーの箴言47】信仰と知識、狼と羊




【原文】

Glauben und Wissen vertragen sich nicht wohl im selben Kopfe: sie sind darin wie Wolf und Schaf in einem Käfig; und zwar ist das Wissen der Wolf, der den Nachbar aufzufressen droht.


【和訳】

信仰と知識は、同じ頭の中にいては(一つ身の中にあっては)互いに堪えられないものだ。即ち、その中では、この二つは、同じひとつの籠の中にいる狼と羊のようなものであり、そして、なるほど知識は狼であって、これはいつも隣人を喰らはむとしているのだ。

【解釈と鑑賞】

この譬喩(ひゆ)も秀逸。確かに、知識、知ることが身を滅ぼすことがある。


2014年12月23日火曜日

Ironieについて

2012年06月23日16:08

Ironieについて

ドイツ語でIronie、イロニー、英語でirony、アイロニーというこの語に、日本語で一語で対応する言葉は、勿論ない。それは、翻訳上の要請によっても、当然そうである。

やはり、カタカナ語でイロニーというようにこの言葉を使うことにしよう。

わたしがトーマスマンから教わった重要なことのひとつが、このイロニーであった。

今手元にあるSachworterbuch der Literatur (Gero von Wilpert編纂)をみると、色々なイロニーの意味について説明がしてあり、最後にトーマスマンのイロニーについて述べていて、それは、

精神が、今ここにこうしているということ(Dasein)の悲劇から距離を置いて自分自身を保持すること

と記述している。

これは、全くその通りだと思う。今ここにこうしていること(Dasein)の悲劇の悲劇とは一体なにかというと、それは人間は、与えられた空間の中と時間の中にいると必ず矛盾の中で生き、矛盾そのものを生きることになることを言っている。

(トーマスマンは、この現実、この事実をTonio Kroegerの中で、Komik und Elend、滑稽と悲惨と呼んでいる。)

何故、わたしがこのことを知っているのかは解らないが、今ここに、この一次元の流れる時間の中にいると、完全な物事の姿が散乱し、丁度鏡が壊れて粉々に砕け散っているように物事が散乱して見えるのだ。

わたしが社会に出て、わたしという人間を理解するときの難しさが、このイロニーだったのだと、今この年齢になって、しみじみと思う。

随分と自分勝手な人間に見えた事であろう。また、今も変わらず、そのような人間に見えることであろう。

この今ここにあること (Dasein)の矛盾を矛盾でなくするために、ひとは命令し服従するということは、生、生きていることの一面であることは間違いがない。そこに道徳も生まれ、倫理も生まれ、社会も生まれ、人間的な感情も生まれる。

しかし、他方、このわたしの無道徳な感覚はどうしようもないものがある。A-moral.

Aなのだ。無関係なのだ。道徳とは無関係。そもそも、関係がないのだ。

(しかし、アモラルな人間とは、一番美味しいものを、一番最後までとっておき、最後に食べる人間でもあるのだ。それが、普通の人間とは違う。流行を追うことがない。不易である。)

20代に読み耽ったHanser版のトーマスマン全集にあったマンの評論あるいはエッセイには、

Geist ist Ironie.

と、そう書いてあったことを思い出す。

これは、

Ironie ist Geist.

とひっくり返すこともできる。

イロニーは、この浮き世に散乱して、互いに無関係に見える物事を結びつけ、接続し、関係を発見する精神の活発な働きである。

この言葉の語源は、同じ辞書によれば、ギリシャ語のeironeiaに由来し、ドイツ語でいうならば、Verstellungという意味である。

このVerstellungという語が、Ironieの一番よい説明であると思う。

Verstellen、フェアシュテレンとは、づらすこと、変形させること、別のものに置き換えること、従い、譬喩(ひゆ)すること、何かに譬えること,tranformすることである。

これが、Ironieであり、Ironieの能力、即ち、精神の働きである。

この精神の力は、わたしには何ものにも換え難い、掛け替えの無い、人間の能力だと思われる。

この能力によって、ひとは、一行の文を、それぞれの個別言語において、発し、歌い、また書くのである。


わたしは、よく何かの折りに、わたしは偽物、偽者ではないかという思いに捕われることがある。

2014年12月7日日曜日

【カフカの箴言46】馬に乗って疾駆する人生からどうやって逸脱するか



【カフカの箴言46】


【原文】


Je mehr Pferde du anspannst, desto rascher gets - nämlich nicht das Ausreissen des Blocks aus dem Fundament, was unmöglich ist, aber das Zerreissen der Riemen und damit die leere fröhliche Fahrt.


【和訳】

お前が馬に馬具を取り付ければ、取り付けるほど、それだけ一層速くなる。つまり、土台から、その足枷を引きちぎることにはならないし、それは不可能なことであるが、しかし、革紐を千切れば、それで、空虚で、愉快な騎行にはなるのだ。


【解釈と鑑賞】

以前の箴言で、カフカが馬に自分を例えるというものがありました。

また、ある短編集で、馬に乗って疾駆するインディアン
を書いた数行の短文があって、そのインディアンの乗る馬の首が、次第に消滅していくというのがありました。首がなくなったときには、インディアンは馬ではない馬に乗っていることになる、ある時制を使った複雑な文章でした。

馬は、カフカに何かを教えた、そのような動物なのでしょう。

と、このように書きましたが、同じ評言をここでも使うことができます。

生きて仕事をすること、あるいは生きることそのものを、このように譬えているのでしょう。

革紐とは、馬の胴体に馬具をくくりつけるための革紐でしょう。
しかし、これをひきちぎったら、馬が走っているわけですから、馬具が飛んで、騎乗者は落っこちてしまうでしょう。

してみると、最後の「空虚で、愉快な騎行」とは、馬からみたこの自走のことを言っているのはないかと思います。

やはり、カフカは、騎乗者ではなく、自己を馬の方に譬えていると考える方がよさそうです。




【ショーペンハウアーの箴言46】信仰と知識と台秤


【ショーペンハウアーの箴言46】




【原文】


Glauben und Wissen verhalten sich wie zwei Schalen einer Waage: in dem Masse, als die eine steigt, sinkt die andere.


【和訳】

信仰と知識とは、一個の秤の両端の皿のような関係にある。即ち、一方の皿が上がると、他方の皿が下がるという割合に応じて。


【解釈と鑑賞】


この譬喩(ひゆ)も秀逸。