埴谷雄高論4(自同律の不快と虚体)
自同律とは、わたしはわたしであるということを知っているのに、そうして、わたしがわたしであるのに、わたしがわたしではない形でしか、わたしのことを言わなければならないということ、必ずそのようなことになることを言っている。自同律の不快とは、それが不快なことだといっている。
即ち、主語があるので、述語部では、主語以外の言葉を持って来て、主語を置き換えなければならないという、この律ともいうべき、規則のことを言っている。そうして、またそれにも拘わらず、わたしはわたしであるということ、それを律という厳格な規則として、律と言っている。
このことが不快である。何故ならば、わたしはわたしであるということを知っているのにも拘わらず、わたしはわたしであるということが出来ないからである。
(この不快という感情は、若さの故の感情だと、わたしは思うが、しかし、それ故に人を惹きつける。だれでも、このことで苦しんでいるのだ。)
このことが不快である。何故ならば、わたしは、わたし以外の何者かにならなければ、わたしはわたしであるという同義語反復の、自同律の罠に陥ってしまうからである。
人間が、このように、いわば述語的な存在であることに反旗を翻して、存在に挑戦する三輪与志は、重要な主人公なのだと思います。
その挑戦の果てにある、三輪与志の理想の姿が、虚体です。
これは、自然のあらゆる法則を逃れ、逸脱している、一人称のわたしの姿です。
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