2012年8月30日木曜日

安部公房の手 2


安部公房の手 2



安部公房全集第1巻に「第1の手紙~第4の手紙」という作品(1947年。安部公房24歳)にある手について、引き続き知ったことを書いてみたい。


第3の手紙に書かれた手、手袋をした手は、その手袋を持参した男の言葉によれば、のっぺりしているばかりではなく、また「若し手相見が見たら何と思うでしょうね。過去にも未来にも全く運命を持たないて……人相観なら定めし腰を抜かして了うでしょうよ。」といわれる手です。

のっぺりといい、またこの時間の無い手、時間を捨象した手ということからいっても、これは何か存在(das Sein)という以外にはない何ものかなのでしょう。

こののっぺりとして時間のない状態、これを後年安部公房は劇団を立ち上げて演技指導するときに、俳優に要求して、neutralな状態と呼んだものではないかとわたしは思います。

それは、確かに「詩以前の事」です。

この手袋の手が「詩以前の事」であるということは、また同じ第3の手紙の中に引用されている次の詩の後半部分、第2連によって明らかです。


心にもなく招かれて
想ひのほとり ほころべる
冷たき花の 涙かな

名も呼ばず 求めもせじに
たそがれの 面(おも)に画ける
宿命(さだめ)の花の 散りしかな


「名も呼ばれず 求めもせじに」とあり、「たそがれの 面」というのは、のっぺりとした時間の捨象された手のイメージを含んでいます。

面白いのは、この詩の前半部の「心にもなく招かれて」というところです。

安部公房の小説や劇の主人公は、みな「心にもなく招かれて」別世界の迷路を彷徨うのではないでしょうか。

さて、このように考えて来ますと、前回書いた


安部公房らしいのは、この手の出現が、「それは新しい手の出現の為ではなく、元の見順れた、私の手の喪失の為の悲しさだった様に想う。」と書いているところです。


と書きましたが、「元の見順れた、私の手の喪失」とは、個別のだれそれさんの手が、のっぺりと時間の無い手になってしまうということ、存在の手になること(die Hand des Seinsというだろうか)を意味しているのであり、その喪失の感情が悲しみだということになるでしょう。

わたしはここまで書いて来て、荘子という支那の古典にある次の話を思い出しました。それは、荘子の第7 応帝王篇にある話です。

渾沌の住んでいる土地に、ふたりのものが行って、饗応を受けた。感激したふたりはお礼に混沌という生き物(これは自然の象徴でしょう)に7つの穴を開けて、目や鼻の穴やらをつくったら、渾沌は死んでしまったというものです。

渾沌を存在と言い換えてもよいと思います。

従い、道ばたに落ちている手というものも、確かになりは手なのですが、今まで実はだれも見た事のない手であって、存在の手であるからには、名前を呼ぶ事ができずに、ぎょっとすると安部公房は、娘のねりさんに言いたかったのcだと思います。

それは、手ではない手、名辞以前の何ものか、なのです。

次回は、安部公房の顔について、同じ「第1の手紙~第4の手紙」から論じてみたいと思います。




2012年8月29日水曜日

安部公房の手


安部公房の手


安部公房は、手というもの、この人体の一部について、若いころから特別な注意を払っていました。

リルケは10代にリルケに没頭していて、リルケというひとも手に深い意味を見つけたひとですから、その影響でしょうか。

しかし、影響とは一体何でしょうか。

リルケの手は、晩年の大作2つのうちのひとつ、オルフェウスへのソネットを読みますと、その第2部のソネットXXIV(http://shibunraku.blogspot.jp/2010/01/xxiv2.html)において、粘土は手で壷を創り、壷はその前提として、そこに入れる小麦や酒やら共同体の生産を組織的にして、そのような社会的な役割を持っている壷を、人間の手がつくると歌っています。

手が壷をつくり、そうして壷には水と油が満ちて、共同体が栄える。手の仕事は定住に関係があるのでしょう。

しかし、仮にリルケの手に想を得たとしても、安部公房の手は、全く独自の手になっています。

安部公房の娘さんの安部ねりさんの著した「安部公房伝」(196ページ)には、次のような会話が父と娘の間にあったことを伝えています。


「ねり、手って何か特別な感じがしないか」と父は私に話しかけた。私が「どう特別なの?」と言うと、父は「たとえば道に、手が落ちているとするだろう。そうしたら、とてもびっくりするじゃないか」と脱線をし、「それなら足首が落ちてたってびっくりするし、首が落ちていたらもっと驚くじゃない」と、親子らしいすれ違いをしてしまった。


このような手は、もうリルケの手とは全然違うという感じがします。

道ばたに落ちている手、です。


安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品がある。これは、1947年の作品。


第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]

さて、この第3の手紙に書かれた手、手袋をした手は、「のっぺりとして、しわ一つない、真上から明かるい電燈で輝らされた手のひらは、まるで何かなめくじの腹の様な不気味さ」のある手になっているのでした。

安部公房らしいのは、この手の出現が、「それは新しい手の出現の為ではなく、元の見順れた、私の手の喪失の為の悲しさだった様に想う。」と書いているところです。

従い、道ばたに落ちている手というものも、何か本来人間の一部であった手が、その手の機能、働きを喪失することになる、そのような手であるのかも知れません。

このあとに書かれる様々な小説にも、果たして、手が出ているのかどうか。出ているとすれば、それはどのように書かれているのか。

ご存知の方は、お教え下さい。


ユーモアとイロニー:Humor und Ironie


ユーモアとイロニー:Humor und Ironie


今朝配信されたあるメールマガジンに面白いジョークが載っていたので、引用して、掲載します。

(以下引用)

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1)ジョーク:小さな島国の小さな人間
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小さな島国の小さな人間がだ。

10年で国を根こそぎひっくり返し、

20年で中国と戦争し、

40年でロシアと戦争し、

80年で太平洋全域で戦争し、

コテンパンにのされたのに世界二位の経済国になり、

アメリカの横面を札束でひっぱたきそうになった。

そんな国が平和を唱えたとして、

信じるバカがどこにいる。

(以上引用おわり)


このようなユーモアとアイロニーは、今の日本にはとても大切だと思います。

大東亜戦争に敗北した(終戦ではない)戦後の憲法は、翻訳憲法です。

あるとき、六法全書を読む仕事をしていて、最初に英語の日本国憲法の原文があり、初めて英語で憲法を全文読んで、誠に驚いた次第です。何だ、日本国憲法は翻訳憲法だったのか。

それならば、話が早い。原文のテキストを読解するに如(し)くはないのです。何故日本の義務教育では、このことを教えないのだろうか。

さて、読んでみて、第9条第2項に至って、わたしは驚倒しました。

そこには、次のように書いてあったのです。

The right of belligerency of the state will not be recognized.

このstateは小文字で書かれていて、大文字のStateではない。

大文字ならば、わが国はと訳すことの正しい、日本国を意味しますが、小文字では、一般的な近代国家の国家という意味になる。

そうして、一般的な国家が交戦権を放棄するなどという一文が憲法の中に入っているのは誠に変である。

そうか、これが戦後の虚妄であったかと、ここに至って、わたしは豁然として目の前が開ける思いがしました。

この小文字のthe stateを、いかにもそれがthe Stateであるかのように偽装して(戦後の鵺(ぬえ)のような得たいの知れない全ての何々モドキ、あらゆるカルト、あらゆる偽者と偽物は、このときに始まったのです)、我が国が交戦権を放棄したかのごとくに国民の理解を誤らせた当の翻訳に携わったその男(多分男だ)を、わたしは八つ裂きにし、串刺しにして、炭火で焼いて、カラスの餌にしたい思いである。

その次には、この受身の一文を付け加えて書いた、その当の白人、アメリカ人をも同様の刑に処するものである。

この第9条第2項の第2の文を書いたアメリカ人も、さすがに相当疚(やま)しい気持ちがあったのだと思う。それはそうだろう。

そのこころの疚しさが、この文を受身の文にしたのだと、わたしは理解しています。主語を立てて、能動文にしたら、これが日本国憲法である以上、明らかに主語は、The Stateとなる筈だからです。受身にして小文字でthe stateとしたところが、その心根が卑しい。

この卑しさが戦後の日本人の卑しさだと思う。それが、どんなに知的な仮面を被っていようとも。それは知的なのではなく、誠に痴的である。

日本人よ、英語を勉強しよう。この英語を読む限り、日本は今すぐにでも核武装をすることも全然問題ないのである。日本国憲法は、我が国、the Stateの交戦権については何事も書いていない。

2011311日の天災は、この虚妄を崩壊せしめたのです。

わたしは、日本人が日本語で自分で筆を執って、日本国憲法を書くがいいと思っています。

その理由は、言葉の人間として思うのは、日本人が日本語の文法を明確にしなければ、真に日本語の憲法を起草することができないからです。

日本人が日本語という個別言語の文法を思い出すということは素晴らしいことです。

これをこそ、わたくしは革命と呼ぶでありましょう。


追伸:

上の英語原文の第9条第2項第2の文の日本語を、次のように訳した馬鹿者がいるのだ。哀れ、愚かな日本国民よ。

国の交戦権は、これを認めない。



2012年8月28日火曜日

安部公房にとっての詩と小説の関係について


安部公房にとっての詩と小説の関係について

安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品がある。これは、1947年の作品。

これは、安部公房が詩について書いた文章です。手紙の体裁をとっていて、いつも誰か見知らぬ相手、あるいはもっと言えば安部公房自身の中のもうひとりの読者に向かって書いている手紙体、または手記の形の作品です。

そうして、その安部公房の典型的な手記の形式を以て、詩について書いているのです。

第1の手紙を少し読み進めますと、次の一節があります。


驚かないで下さい。此の僕の取った未知と云うのは、<詩以前の事>について書く事だったのです。勿論それにこだわる事は止しましょう。だが、<詩以前の事>は、森に包まれた山路の様なものです。


この一文で明らかなことは、安部公房にとって、手記という形式の散文は、その言葉をそのまま信じると「詩以前の事」を書いているものなのである。そうして、これは、その通りだと信じてよいと思われる。

この「詩以前の事」の「詩以前」とは、時間の中で詩の生まれた先後をいうのではなく、むしろ全くその逆で、時間を捨象して(これが安部公房らしい)、「詩以前」と言っているということなのです。

詩の前にある事、そうして詩の基礎になっている物事を書く事、それも手紙や手記の形式でそのような「詩以前の」物事を書く事、これが安部公房にとっての散文の意味であり、それがひとに小説と呼ばれるものになった最初の姿なのだということがわかります。

従い、安部公房にとって、詩と小説の関係は、詩は詩、「詩以前の事」を書いたのが小説ということになるでしょう。

安部公房がこのように考えて小説を書いたということは、とても大切な事だと思います。

安部公房は無名詩集をとても大切にしていて、小説家として名をなしてからも、自分のよき理解者には、この詩集を手渡して、そのこころを表していました。

追記:

第1の手紙は、詩と「詩以前の事」について、
第2の手紙は、歩道について[これは既に「問題の下降に依る肯定の批判」(1942年)という10代のエッセイでは、遊歩道としてっ出て来たものと同じイメージのものです。]
第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]

遊歩道や顔や手は、安部公房がその種子から大切に育て、はぐくんだイメージ、形象のひとつです。

これらについては稿を改めて論じたいと思います。

2012年8月26日日曜日

根石さんの著「英語どんでん」を読んで パート2


根石さんの著「英語どんでん」を読んで、ドイツ語の世界でのわたしの経験を感想としてわたしの散文専門ブログ「散文楽」書いたところ、根石さんの掲示板「大風呂敷」で丁寧に回答を下さった。

その回答、返信に、更にわたしも返信をした次第です。

ご興味のある方は、次のURLアドレスへお越し下さい。言語論、語学論、語学実践論です。主題多岐に亘り、しばしば哲学論、雨のち晴れ、時折翻訳学問どうしようもないぜ論になったりしております。


http://8100.teacup.com/ooburoshiki/bbs/index/detail/comm_id/9399

2012年8月23日木曜日

根石吉久さんの「英語どんでんがえしのやっつけ方」(小学館文庫)を読んで


根石吉久さんの「英語どんでんがえしのやっつけ方」(小学館文庫)を読みました。

根石さんのものの考え方と方法は、具体的、独創的に命名された学習プロセス、学習体系の用語は、わたしにはありませんが、わたしがドイツ語を学習した考え方と方法と全く同じでした。

以下、読後の感想を、わたしのドイツ語学習法との関係で、書いてみたいと思います。

大学に入って第2外国語にドイツ語を選択したときに決心したことは、英語をあれだけ学んだのに英語が全然ものにならなかったのは学習の考え方と方法が間違っていたに違いない。ドイツ語を学ぶときには、全く自分独自の考えで、英語のときとは全く違う方法でドイツ語を学ぼうということでした。

教わった英語の学習方法の間違いの原因は、根石さんは文法構造の違い、特にSVOと来る英語に対して、SOVと語を配置する日本語のシンタックスの違いにあると指摘していて、これは全く、当時わたしの感じ、考えたことでした。

このことについての疑問は、たったひとつの疑問文によって、表現されるのです。それは、

何故英語の文を頭から読んで行ってnative speakerは理解するのに、日本人は、文法に頼ってあっちへ行き、こっちへ行きしなければ、文の意味が理解できないのだろうか?

という問いです。

従い、わたしのドイツ語学習の眼目は、最初から、ドイツ語の文の連続(文章)を頭から読み下して行って、そのまま意味を理解するためには、日本語の世界に生まれ育った日本人として、何をどう考え、どのようにすればよいのか(方法)ということにありました。

ドイツ語とドイツ文学を修得しようと(実は内心は言語とは何かという問いに正面から答えてみようと)進級した修士課程で教わったドイツ語とドイツ文学は、まづ専ら読むということ、読解ということ、従いそれは、英語の文章の読解で犯したのと同じ学習法でした。

(誰がこの間違いを犯したのか?英語教師であり、文部省である。しかし、勿論明治時代のひとたちにとっては、この方法は、正しく、有効だったと思う。それは漢文ができたから。江戸時代の遺産の上にその読解法は有効だったのだと思う。しかし、わたしに漢文の素養は恥ずかしいことに、無いのだ。そのような無知の人間として、一体どのようにこのドイツ語という言語を自家薬籠中のものにできるのだろうか?というのが、当時のわたしの問いであり、回答を得る努力でした。)

即ち、ドイツ語文法を基に、文のあっちこっちに飛んで文を理解するという方法です。

修士課程の1年間を、しかし、そうやって寝食を忘れ、睡眠時間を削って勉強すると、集中するというのは凄いもので、ゲルマン民族の記録に残る最初の文字の中世のドイツ語から20世紀現代のドイツ語まで読めるようになりました。

しかし、わたしはこの学習方法の限界を感じました。これでは駄目だと思いました。これでは、英語の場合と同じ過ちを犯している。

読み下して原文のドイツ語を理解するということを実践するには、ここにいても限界だと思いました。それで、当時誠に恐ろしくも未開未知の国であった共産主義国家東ドイツにドイツ語日本語英語の通訳と翻訳の仕事で渡独したわけでした。

その目的は、只一つ、ドイツ人の速射砲のように、マシンガンのように連射するドイツ語の意味を聞いた順序で理解すること、その言葉の出て来る順序で瞬時に理解をし、また自分も同様に同じ言葉の順序(シンタックス)で言葉を返す事、それに、同じようにしてドイツ語のテキストを読むことです。

それには、自分の声を持つ必要がある。と、そう思いました。そうして、実際ドイツでは、仕事も通訳という仕事柄、自分のドイツ語の音声を持たなければ生きては行けない。自分を意図的に、そういう場所へと追い込んだのです。

自分の声、それもドイツ語での自分の声を持つ必要があった。そうしないと、上の目的は達せられなかった。

頭の中でも、音に出してドイツ語を読んでいるのは、日本語で日本人が文章を読むのと全く同じことです。

毎日朝の4時頃になると、うなされるようにして必ずドイツ語で夢を見た。全く直かにドイツ語で夢を見た。実に流暢に速射砲の如く、マシンガンを連射するが如く、覚醒後に思い出すと完璧にドイツ文法に則って誤る事なく、ドイツ人と対等に話をし、会話も対話もしているのです。これが絶える事無く、4ヶ月続いた。即ち、その間、現実の世界の通訳としては全然糞にも役に立たなかったということです。

この自分の声を持つという訓練をすると、ドイツ語の文章を読む速度が圧倒的に速くなった。それは、そうだ高速度で発声し、読めるからです。実際に声を出さなくても、頭の中で発声し、流れる如くに読んでいるのです。

このとき、ドイツ語の旋律と韻律(リズム)を、わたしは体得したのだと思う。

そうなって来ると、ドイツ人が発音する一語を聴いて、瞬時にその言葉の概念、言葉の意味の全体、根石さんの言葉で言えば、イメージ、それからもっと抽象化した生きた言葉の全体の意味であるイデアを、瞬時に音を聞くや否や、理解するという経験をすることができた。これは、誠に不思議な経験です。

音から、音で、言葉の意味の総体、即ち概念を理解するのです。概念がわたしの中に瞬時に入って来るのです。

辞書を引かないで、頭もあれこれひねらないで、その語が発音されて、音声で音を聞いただけで、そのコンテクストを通訳の現場で理解しているので、そのことを前提に、瞬時にその概念、概念というのはわたしの言葉であるが、その概念を理解できるのである。

(根石さんは詩人ですので、詩から言語に入って来るからイメージというのだと思う。わたしは散文から言語に入って来たので、概念というのだと思う。)

この経験は、翻って、今度は英語を読むときによい影響を及ぼした。英語も、自分の声で、自分の旋律と韻律(リズム)で読むことができるようになったのです。それはドイツ語訛りの英語であるけれども。しかし、つまり、頭からの読み下しができるようになった。

そうなってみると、英語の、俗にいうヒアリングの能力が向上したのです。(まあ、わたしの程度のヒアリング能力ということであるけれども。)

また、不思議なことに、その日本人に、ドイツ語の一文なり、一節なりを、一寸でも音に出して、読ませると、その日本人のドイツ語の実力が即座に解るようになった。口には出さないが、その音読での読み方を聞くと、それが解るのです。

ただ如何にも流暢に見せて速く読んでもだめで、やはり言葉の一語一語の意味とその連結された意味、そして、SVOという文の構造(形式)との整合性のとれた理解が、音声に載って、響いて来るのです。即ち、傾聴していて言葉の意味がわたしの中に入って来るのです。

わたしはもう一つの詩文専門のブログ「詩文楽」でドイツ語の詩を訳していますが、この場合、わたしの翻訳の方針は、日本語のゆるす限り、日本語の配置で日本語の意味が壊れるぎりぎりまで、その手前直前まで、ドイツ語の語順で頭から訳して行くというものです。これはわたしの読み方の、即ち理解の仕方の順序そのままなのです。またもうひとつ言えば、ドイツ語の意味の世界に少しでも日本語を介して生に近い形で経験してほしいと思うからです。

今は日本にいて日本語の環境の中にいるわけであるので、ドイツ語を話す機会が少なく、発声して話す速度は遅くなり、読む速度も遅くなったが、しかし、旋律と韻律を以て頭から読み下す能力は全然衰えていないと思われる。

この読む速度の高速化には、もうひとつ、実は、語の概念を理解するという成果、概念化をするという成果があって、初めてできるのですが、これについてはまた稿を改めて、論じたいと思う。

概念化ができるようになると、薬の壜に貼ってある能書きも、あっという間に斜め読みできてしまうのでした。

わたしのいう概念化を、根石さんはイメージをつくるといっているし、更にその語のイデアを知るという言い方をしている。全く同じ事を、ふたりとも言っているのです。

最後に付言すれば、日本人のドイツ語の文法の世界には、関口存男という素晴らしいドイツ語文法の大家がいて、意味形態という言葉を、このひとからわたしは教わりました。このことについて書いておきたい。

それは、わたしが39歳のときに言語とは何かという問いに正面から答え得た言語機能論と全く同じなのですが、同じ事を、意味形態という独創的な言葉によって、ドイツ語ばかりではなく、そもそもの言語の本質をより容易に、解り易く伝えるために、この偉大な文法学者(単なる学者ではなかった)が概念化してつくった言葉なのです。勿論、関口存男は、時折機能という言葉を使って、その著書のあちこちで言語を論じてもいます。

気がついて廻りを見廻すと、ソシュールも言語機能論だし、ヴィトゲンシュタインも言語機能論でありました。

前者は、言語の機能をチェスというゲームの駒の説明で行っている。後者は、言葉の意味は人間の使い方によって定まると実に平易に言いっていて、その言語のイメージ、形象を、建物の周囲を囲む、建築のために高く構築された足場に譬(たと)えております。これは、全くその通りの、言語の本質の素晴らしい、正鵠を射たイメージ、形象だと思います。

あるいは、ヴィトゲンシュタインの言葉で、言語ゲームなどと日本語に訳されているこの命名からも、言語が機能であるとヴィトゲンシュタインが考えていることが自明のこととして解ります。

ソシュールもヴィトゲンシュタインも、期せずして、言語機能論をゲームに譬えて説明をしているわけです。これは面白いことだと思います。

言語機能論は、何も、わたしの独創ではありませんでした。誰が考えても至る、平々凡々たる言葉の事実であるということです。

さて、この関口さんの文法の素晴らしさは、実践的だということにあります。即ち、日本語の世界にいる日本人が日本語の意味の世界から、ドイツ語の意味の世界を理解することが過不足無くできる、日本人の感覚にぴったり来るように(頭で理解するのではなく)ドイツ語の意味の世界を理解することができる、日本人のためのドイツ語文法だということです。

この方の文法にもまた、別に稿を改めて論じることがあると思います。

わたしが根石さんのようにドイツ語の塾を始めるとして、さて、どうやってドイツ語を教えたらよいものか。と考えてみました。

わたしの経験したのと同じ経験をさせることはできません。そうであれば、日本にいて、ドイツ語を理解できるようになるにはどうするかという問いに答えることになるだろう。

と、こう考えて来ると、やはり関口文法に戻るのです。関口存男の意味形態という考え方でドイツ語を教える。

そうして同時に、詩や散文の一節を音読させて、暗記させる。何度も読ませることになるのは、根石さんの回転読みに似て来ることでしょう。

根石さんの本を読んで、一度、わたしの経験を整理して、体系立てることが必要だということがわかりました。

自分が覚えた順序と、それを人に伝える順序は異なるということを十分意識しながら、ドイツ語学習のマニュアルを書くということになるでしょう。

最後は何か、わたしの備忘のようになりました。


追記:

わたしのドイツ語の実力は、公平に見積もって、松竹梅でいうと竹、上級中級初級でいうと中級の初またはせいぜい中どまりといったところだと思います。

しかし、難解な哲学書や論文、高級高度なリルケのような詩を読むにも、実際に使っているのは、初級文法です。あとは、ただただひたすらに辞書をひいてきたのです。

日本人のドイツ語の世界には、日本語の世界でいうなら広辞苑に相当する木村相良と編著者の名前を冠して呼ばれる独和辞典があるのですが、20代のうちに、これを4冊引き潰しました。今あるのは10年前に近所の古本屋で買った5代目です。

今の世は、インターネットがあって、簡単に英独、独英など、またグリムの辞書も無料でネットで使えるので、これはもう実に言葉の検索は楽になりました。グリムの辞書などは、学生のころ、もし紙で持つと30数巻を超えたと思います。それが、今ではネットで無料で使えるとは。

また、パソコンには、ドイツ語でドイツのニュースを視聴することができる時代ですし、ドイツ語の学習法も当然楽になり、変わりました。

しかし、語学修得の根幹、即ち、読み下し、聴き下すというところは不変です。

さあ、これをどうやってものにするか。これが日本人にとっての変わらぬ問題なのです。

文学史について


文学史について

アイヒェンドルフの詩を訳していて思うことは、やはり、この詩人を文学史で呼ぶようにロマン主義という文芸思潮に入れて、ひとくくりにしてしまうことはできないし、そのように考えてはいけないということです。

それほど、アイヒェンドルフは現代的、contemporaryな感じが強くする、今もその詩の言葉が脈々と、古びる事なく生きています。

大学の修士課程の口頭試問のときに、先生達に向かって、文学史についてのわたしの考えを述べたことを今思い出す。わたしは文学史というものが嫌いであった。

時間の中で理解するだけでは、その芸術家を、またその人間を理解したことにはならないのだということを思い出す。この意見を開陳したことを思い出す。

アイヒェンドルフの詩を読んで、この芸術家のこころは、人間のこころのある階層に位置していて、そのこころ、あるいはその意識を代表しているのだと、やはり思わずにはいられない。

それが歴史という時間の中で呼ばれる各様式(style)の意義と意味である。そのスタイルは変わらない。どの時代に現れても。

人間は時間の中に生まれて来るが、その求めたこと、逆に作品の由来するところは、時間を超えている。それは、必ず構造を備えているのだ。

口頭試問で、わたしが口にしたもう一つのことは、初めて英語を教わった時に思ったことで、I am a boyは、わたしは少年である、ではないという考えであった。ここに潜んでいる問いは、

1。翻訳とは何か
2。言語とは何か(一般):言語は関数、function、機能であるという当たり前の事実)
3。個別の言語とは何か(個別)
4。意味とは何か(意義と意味、senseとmeaning、intensiveとextensive、内包と外延)
5。価値とは何か(価値の体系)

という問いである。

そうして、この考えは今も変わらず、また以上これらの考えは今も変わらず、その通りである。

アイヒェンドルフの詩を読み、解釈し、理解し、日本語に翻訳するということは、上の問いの大本に直かに接することができるという経験である。

[追記]
詩文楽のアイヒェンドルフについての文章をお読み戴けると、嬉しい。:【Eichendorfの詩 8-3】Der wandernde Musikant (旅する音楽家) 3;http://shibunraku.blogspot.jp/2012/08/eichendorf-8-3der-wandernde-musikant-3.html

わたしにとってのトーマス•マン


わたしにとってのトーマス•マン

10代の終わりにこの作家に出逢って、10年が経ち、大学を卒業を控えて思ったことは、このトーマス•マンという小説家のことを講壇、教壇で教えてお金に替えたりしないということ、この作家についての知識を話すことで決して生計を立てるようなことをするまいということ、そのような決心を心中深く密かにするほど、この作家はわたしにとって、無償であり、純粋であり、純潔である何ものかであり、それが何かを教えてくれた芸術家でした。

そうして、それは、今も変わらず、そうである。

2012年8月10日金曜日

安部公房の願った読者との関係はどんな関係であったのか?


安部公房の願った読者との関係はどんな関係であったのか?

箱男を脱稿したあとに行った、安部公房の講演を、YouTubeで聴くことができる。

これを聴くと、わたしの劇しか観ないで欲しい、わたしの劇以外の劇は観ないで欲しい、そういう観客であって欲しいと強い口調で言っているところがあります。

これは、大人からみると、非常に子供っぽい感情の表白です。大人ならば、だれでも、現実の関係とは、そういうものではく、関係の濃いひともいれば、薄いひともいて、好き嫌いを問わず、様々な人間たちと交際しなければならず、またそのような交際、交流を前提にして生活をしています。そうして、垂直方向の、また水平方向の、そのような関係の中で約束をまもることを道徳と呼んでいるわけです。

しかし、安部公房は違います。わたしとあなた、俺とお前の関係で、そういう関係を築きたいし、維持したいのだと言っているのです。俺のいうことだけを聴いてくれる友人が欲しい。

何と言う一方的な要求であり、願いであることでしょう。

安部公房の10代の友人、金山時夫という友人、「終わりし道の標べに」の扉のエピグラムに名前の書かれているこの友人は、安部公房にとって、そのような友人であったのだと思います。

安部公房全集の第1巻の「贋月報」に当時を回顧している児玉久雄という方の言葉では、「彼(安部公房)にとって故郷って何だったのか、金山って何だったのか、これが僕にとってわからない。その三年間しか空白がなかったのに。金山のことは、僕は安倍を通しては知っているんです。安倍と会うときは、金山と一緒に会っているから。金山はいつも安倍の後ろにいた。黙って立っていた。僕は、むらむらっとしたのを覚えています。嫉妬を覚えたんです。」と語っている。

この証言をみて解る通り、金山時夫は、

1。安部公房が社会(他者)と向き合うときにいつも安部公房の前にではなく、後ろに控えていた人物なのです。それも、二人の関係に第三者が嫉妬を覚えるような関係。金山時夫とは、そのような友人であった。つまり、

2。安部公房の幼い感情、しかし純粋な感情を理解していた、俺の言うことを聴いてくれ、俺の言う事だけを聴いてくれ、他の人間の言う事なぞ聴かないでくれ、俺の世界を理解してくれという少年安部公房の欲求に答えることのできた唯一の友達だったのだと思います。

3。そのような関係であったから、金山時夫はいつも安部公房の前にではなく、後ろに立っていたのです。そうして、安部公房の友人に嫉妬心さえ起こせしめた。

これは、安部公房が、読者と自分の関係を1:1で、作品という媒介(メディア)を通して構築したいと願っていたことを意味しています。

そのための形式が手記という形式でした。この手記という形式を、安部公房は「終わりし道の標べに」以降、頻度高く使うことをしています。

何故、そのように手記という形式を愛用したかは、以前の記事「「終わりし道の標べに」(安部公房)を読む:第1のノート 終わりし道の標(しる)べに」(http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html)に書きましたので、それを参照戴ければと思います。

いづれにせよ、安部公房が読者と築きたかった関係は、ネットワークの類型(分類)でゆくと、スター型のネットワークです。

これは、安部公房のすべての主人公の意識の姿、他者との間に求める関係の姿だと言って良いでしょう。図に描くと、このようになります。ご興味のあるかたは、ダウンロードなさって下さい。


10代の安部公房の詩では、網を張る蜘蛛に詩人を擬している詩がありますが、そのような蜘蛛の巣のイメージに、スター型のネットワークはとてもよく似ていることがお解りでしょう。(「安部公房の詩を読む2」(http://shibunraku.blogspot.jp/2010/03/2.html)を参照下さい。)

思考の問題としては、安部公房ほど、多視点、多次元で物事を考えることのできる人間はいないだろうと思われるほどなのに、いざ生きた人間として、自分自身と生身の読者の関係を考えるときには、そのような1:1の、あるいは1:Nの、スター型のネットワークの関係を求めた作家だということが言えると思います。

2012年8月9日木曜日

安部公房の都市(苅部 直著。講談社)を読んで



安部公房の都市(苅部 直著。講談社)という本を読みました。

この本は、1960年代の日本の経済の俗称高度経済成長の時代の東京という都市に焦点を当てて、その都市の姿がどう安部公房の小説に姿を現しているかということを考察した本です。

従い、個々の作品について、安部公房という人間についての深い理解を得るということのできる本ではありませんが、しかし、断片的にではありますが、安部公房の思考、志向、嗜好について、上の視点から、色々な小説からの引用をして、他の資料と事実との関係でその引用について言及し、考察していて、そういう意味では、何かこう、都市という視点からそれらのシコウが拾い集められていて、面白くないことはない本でした。つまり、安部公房の作品についての、独立した徹底的な作品論ではないということです。

しかし、その中でも、興味をひいたのは、真善美社版の終わりし道の標べにが、後年の版とは随分と違うところがあるという言及でした。

今週末から、わたしは夏休みに入りますが、北海道に帰省中に、安部公房全集の第1巻を持参して、涼しい空間の中で、真善美社版を読んでみたいと思います。

わたしの故郷は、安部公房が榎本武揚で書いている道東の根釧原野なのですが、そういえば、そうだったなあということを改めて、安部公房の都市という本で思い出した次第です。

榎本武揚の配下の武士300名が、入っていって姿を消した原野が根釧原野です。

榎本武明の語り手に手紙を書いた人物の住まう厚岸(あっけし)という漁港は、わたしの生まれた町、釧路の隣町で、今回もきっと訪れることでしょう。厚岸へ行くというのは、今は自動車で40分か50分の近い距離(50キロ位)ですが、子供のころは、早朝に旅の支度をして、汽車にのってトコトコと行き、またその日の夜に帰ってくるという一日がかりの大仕事でした。

真善美社版を読んで知ったことを、またこの散文楽にまとめたいと思います。

それは、真善美社版と後年の版の比較をして、その差異について考量するということになりますが、真善美社版の方が、10代に書いた詩文と散文の理論篇と実践篇に近い位置にある分だけ、一層生々しい少年安部公房がいるのではないかと思い、今から楽しみなことです。

終わりし道の標べにを故郷に帰って読むというのは、考えてみれば、実にアイロニカルで、いいと思います。

同時に、埴谷雄高の死霊(全一巻)も持参するつもりです。

では、あなたも、よい夏休みをお過ごし下さい。できれば、安部公房とともに。

追伸:
一体安部公房の好きなファンを何と呼ぶのだろうと、この数日考えています。

Sherlock Holmsならば、Sherlockian、シャーロッキアン、Lewis Carrollならば、Carrollian、キャロリアンといいますが、母音で終わるKoboの熱狂的なファンを何と呼ぶのか。

フェイスブックを通じて知己のドイツ人に訊いたところ、ドイツ語ではどうやらKobianer、コービアーナーということになるということがわかりました。英語ならば何というのか。Koborian、コーボーリアンというのかと思っていますが、さて、どうでしょうか。








2012年8月4日土曜日

「終わし道の標べに」を読む7:13枚の紙に書かれた追録


「終わし道の標べに」を読む7:13枚の紙に書かれた追録

3つのノートを書いた上に、何故この追録が必要であったのか。それを、以下に引用する文章によって、知ることができる。

これらの言葉を、語り手は書かずには、3つのノートを締めくくることができないと思ったのだ。これは、そういう意味では、3つのノートの種明かしでもある。勿論、既に3つのノートのあちこちで、繰り返し変奏された主題ではあるのだけれども。

以上述べ来たり、論じ来った3つのノートに対するわたしの感想を読み、以下の引用を読むと、10代、20代の安部公房の姿が、鮮明になるのではないだろうか。勿論、その姿は、晩年に至るまで、変わることがない。

1。引用1
粘土……本質的に形態をもたぬもの……したがって、あらゆる形態が可能であり、しかもそのすべての形態が、つねに過程にしかすぎぬもの……あたかも、大地の霧のように……霧……あの出発の朝……もしかすると、私の十年間は、単にあの朝の反復にしかすぎなかったのではあるまいか。境界線を踏み越えようとする、ただその瞬間の……。

しかし、いま問題なのは、この結晶の芯にあるものが、はたして行為なのか、それとも単なる認識なのかということだ。そう、それこそおそらく問題の核心に違いない。できればもう一度、あの粘土塀の終わったところ、荒野の門に、立って見ることだ。

(省略)書くことの意味を問われたら、私はたぶん、答えることだと答えるしかなかっただろう。しかし、なぜ答えなかればならないのかは、私にもさっぱり分からない。

2。引用2
しかし私は、やはり書くだろう。その若者のことを書き、陳のことを書くだろう。いずれ私はそんなふうにやってきたのだ。たとえ誤解であろうと、行為のつもりで歩きつづけてきたのである。認識のない行為は、地獄かもしれないが、行為のない認識は、たぶんそれ以上に地獄なのではあるまいか。

3。引用3
ここはもはや何処でもない。私をとらえているのは、私自身なのだ。ここは、私自身という地獄の檻なのだ。いまこそ私は、完璧に自己を占有しおわった。もはや私を奪いにくるものは何もない。おまえ(傍点あり。第2のノートに登場する10代の美しい娘のこと)の思い出さえ、すでに私には手がとどかないものになってしまった。手をうって快哉を叫ぶがいい。いまこそ私は、私の王。私はあらゆる故郷、あらゆる神々の地の、対極にたどり着いたのだ。

だが、なんという寒さ?なんという墜落感?間もなく日が沈む。そろそろ書いている字も読めなくなってきた……。
 さあ、地獄へ?


(この稿続く)

「終わし道の標べに」を読む6:第3のノート



「終わし道の標べに」を読む6:第3のノート

第3のノートには、知られざる神という副題がついている。

第3のノートの主題は、自己を占有することについてである。

どのようなことになったならば、存在からの逃亡者、どこにも血縁の家族にも無関係な孤児は、自己を占有できるというのであろうか。それは、このノートの最後に、次のように書いてあるところを見ると、解る。

とつぜん幸福な笑いがこみ上げて来る。ゆっくり小出しに、時間をかけて、できることなら、永久にでも笑いつづけていたかった。だが、いったい何を?むろん、この瞬間を、この私をだ。逃走に逃走をかさね、どこにもたどり着けなかった、この私をだ。べつに滑稽だから笑うのではない。逃走を手段だと考えれば、なるほど<<かく在る>>私は、否定さるべき敗者かも知れぬ。手段の途中で、宙吊りになった、哀れな矛盾の道化師かもしれぬ。しかし私は、せめて自分のこの強情さを祝福してやりたいと思うのだ。……いまこの私は、確実に、私以外の誰のものでもあり得ない。

この「私以外の誰のものでもあり得ない」私を、「知られざる神」と呼んだのだと思われる。

このとき、語り手は、阿片のせいかどうか不明であるが、粘土塀の内側の村の中と、その塀の外側に、同時に(同時にとは何か?である)いることができているのだ。それを、語り手は、自己を占有した状態と呼んでいる。

第3のノートの比較的前の方で、語り手は、神との関係で、自分自身のあり方について、次のように言っている。

くりかえして言うが、私には私だけで沢山なのだ。神にとって、神が自分自身であるように。

これが、知られざる神という副題の意味である。そのような自己のあり方が、第3のノートの最後で、上の述べたように、達成されている。


(この稿続く)

「終わし道の標べに」を読む5:第2のノート


「終わし道の標べに」を読む5:第2のノート

I  孤児の文学

第1のノートが、ふたつめの故郷、即ち存在からの果てしない、孤独の人間としての無限の逃亡の話、遁走の話であるのに対して、今度は、第2のノートは、その第1のノートの意識の連続のままに、主人公、即ち手記の語り手が、既知の友人とのある偶然の出逢いから、ある家族の後見人になる話である。

この友人の言葉によれば、手記の語り手は、「君には、幸か不幸か、両親もいなければ兄弟もいない。後見人の役を肩がわりしてもらうには、まさにおあつらえむきの人物じゃないか」と言われるように、孤児である。

第2のノートとは、第1のノートの語り手である孤児が何の血縁関係もない家族、一族の後見人、即ち偽の父親、偽の家長になる話である。

ここに、既に後年の安部公房の小説や劇作の種子が胚胎している。壁は勿論のこと、遺稿である飛ぶ男に至るまで。

わたしは、以前、安部公房の文学は、一言でいうと孤児の文学であると書いて、その小説の特徴を列挙したことがあるので、そのページをご覧戴ければと思う。(http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/07/blog-post_29.html

安部公房は、1943年に書いた小説、題未定の霊媒の話で、同じプロットを書いている。安部公房全集30巻の第1巻冒頭にある作品です。

少し当時の安部公房の仕事振りを整理してみよう。理論篇と実践篇にわけて、整理してみると次のようになる。

1。理論篇
(1)問題下降に依る肯定の批判(1942年:18歳)
(2)詩と詩人(意識と無意識)(1944年:20歳)

2。実践篇
(1)詩:没我の地平(1946年:22歳)、無名詩集(1947年:23歳)
(2)小説:霊媒の話(1943年:19歳)

10代の後半から20代の始めにかけて、安部公房は、理論の思索と、それから詩と小説の実作と、これら2つのことを同時並行して行い、3種類のジャンルの作品を書いていたということになる。

これらの理論と実践の作品は、いづれも互いに大いに関係があって、 別々に独立しているわけではない。理論篇と詩作の関係については、既にこのブログで、18歳の安部公房と題し、また19歳、20歳の安部公房と題して丁寧に、その理論篇を解読し、詩作品に対してその理論の適用をして詩作品を解読したので、読者にはそれらの記事をご覧戴ければと思います。

さて、第2のノートを読むと、霊媒の話について言及せざるを得ない。それはどのような話であるのか。

この話は、子供の居ない家に、村の外から物まねの能力を持つ孤児(10代の少年。18歳)が村にやって来て、その家に入って、死んだ婆さんの依り代(しろ)の振りをして(演技をして)、霊媒として、その家の中に入り込み、偽の関係の中に住みつく話である。

この孤児には本名はなく、芸名やら何やらで、色々な名前で呼ばれる、言葉通りの無名の人間である。

そうして、偽の家族関係に入り込む人間として、それは偽善者であると呼ばれている。この偽者であるということを巡って、主人公は、社会の道徳や倫理や、家族のことを、自分が犯したかも知れない老婆の殺人のことを、夢の中や現(うつつ)の中で、苦しみの感情とともに、あれこれと考え、思いめぐらせるのだ。そうして、最後には、主人公は、やはりその家から逃亡するのである。

興味深いことは、この作品は、散文でありながら、その中に詩が入っていること、即ち散文と詩文の混交した作品であるということ、更に即ち、そういう意味では、散文と詩文の未分化の作品であるということだ。

この作品から散文が独立して、第2のノートになるまでには、4年の時間が必要であった。


[備忘]何故安部公房は無名詩集を最後に、詩から散文(小説)または劇作に舞台を移したのか。アクション:対話、会話の展開の面白さと譬喩(ひゆ)、隠喩よりも直喩の多用。これが安部公房の小説の文体の著しい特徴である。それは、何故か。


II 第1のノートの果たした奇妙な役割とは何か?
第2のノートで、語り手は、「あのノートが果たしてくれた奇妙な役割のことからでも書き始めるとしようか」と冒頭のところで述べている。

この奇妙な役割とは、次のことである。

それは、このノートが他者との意思疎通(コミュニケーション)の手段、道具となったということである。

この場合、ノートは、主人公の知らぬ間に盗まれ、読まれて、また主人公の知らぬ間に、もとの枕の下に戻されるということ、これが大事なことなのだ。即ち、他者とのコミュニケーションに、主人公の作為がないということ、その目的がないということ、その読ませたいという意志の発露がないということが、大事なことであり、第1のノートは、そのような役割を果たし、語り手は、それを奇妙な役割と呼んだということである。

これは、その後の安部公房の小説で、手記の体裁をとっている小説の中でも、ノート(手記)の果たす「奇妙な役割」なのではないだろうか。その後の手記の体裁をとる小説において、手記の持つこの「奇妙な役割」の検証が必要とされる。

また、第2のノートは、書かれざる言葉と副題が付されている。書かれざる言葉とは何であろうか。

この第2のノートの終わりの方に次のような箇所がある。

<<終点の道標>>という言葉自体が、すでに自己を裏切る、矛盾した概念だったのだ。そう、今なら分かる、わたしの逃走は、自己を占有するための実験だったらしい。(省略)そら、早く逃げ出せ、誰かがおまえの自己を盗みかけているぞ!

わたしの考えでは、この「自己を占有」することについては、言葉で表現できない、行為と、従って、経験による以外には占有はあり得ないということ、そのような言葉のありかたを「書かれざる言葉」と言ったのではないかと思う。

この「自己を占有」するということは、第3のノートの表立った主題である。そうして、この第3のノートは、知られざる神という副題がついている。勿論、第1のノートと第2のノートの延長の上に、第3のノートがあることは、いうまでもない。


III 恋愛感情
手記の語り手は、偽の父親であるがゆえに、自分の擬似的な関係にある娘に対する恋愛感情が禁ぜられ、禁欲を強いられる主人公ということになっている。

この恋愛の対象は、10代後半のまだ、成熟した女性にならぬ前の、性の未分化の状態の娘に対する感情である。この感情の丁度裏返しに、語り手は、娼婦的な成熟した女性に対する肉体的な、また偏執的な愛情を持つのではないかと、わたしは思う。その後の安部公房の主人公の、女性に対する愛情のあり方や如何に。多分、この2種類の女性が、小説の中に現れるのではないかと思われる。

また、主人公が偽の父親、偽の家長であるということは、その家族もまた偽の家族ということになる。安部公房の小説は、陰画としての家族小説、ファミリー•ロマーンでもあるということだ。

(この稿続く)

2012年8月3日金曜日

「終わし道の標べに」を読む4:カンガルー・ノートの形象(イメージ)


「終わし道の標べに」を読む4:カンガルー・ノートの形象(イメージ)

この小説の第1のノートを読んでいて、思いもかけず、最晩年の小説、カンガルー・ノートの形象(イメージ)に遭遇したので、備忘のために書き留めておこう。それは、次のような文章である。


手術台に載せられ、長い廊下を右へ左へと引き廻されたあと、ふと一切の時間がとだえたように車が止り、突如固定した静寂の中に投げ出される。


それから、この第1のノートを終わりまで読んで思うことは、もしこの小説を一言で言い、この小説に別の名前を与えるとすると、それは、阿片吸引者の手記であろうというものである。

このようにこの小説を読み替えてみると、日本文学史に、このような阿片吸引者を書いた小説があっただろうか。

今インターネットで検索すると、陳瞬臣の阿片戦争という歴史小説が検索されるが、阿片吸引者の小説の名前は見当たらない。

阿片というものが、逃亡者の意識の苦痛を和らげる作用をすることで、手記の正気を保つことに資するようにという、主人公が阿片を吸引する意味もあれば、同時に(同時にとは何か、である)、阿片によって狂気と夢を招来するように働くという意味もあるのだろう。

2のノートは、この意識のたゆたい、意識と無意識の境界線上の意識を削るように書いて行くことになるのだろうと推測される。

2012年8月2日木曜日

「終わし道の標べに」を読む3:2つの故郷について


「終わし道の標べに」を読む3:2つの故郷について

第1のノートの始めの方で、この手記の語り手は、故郷には次のふたつがあるといっている。

1。「ひとつは、われわれの誕生を用意してくれた故郷であり、」
2。「今ひとつは、いわば<かく在る>ことの拠(よ)り処(どころ)のようなものだ。」

前者は、普通にこの世に生を受けたときの、何々県、何々町、何々村という古里であり、後者は、「<かく在る>ことの」故郷である。

既に前回の稿で述べたように、この後者の故郷とは、「かく在ること」(das Dasein、ダス•ダーザイン)の故郷であるので、それは、存在、das Sein、ダス•ザインのことである。

埴谷雄高は、この存在に挑む異母兄弟という主人公達を創造したが、他方、安部公房は、この手記を読むと、「人間は生まれ故郷を去ることは出来る。しかし無関係になることはできない。存在の故郷についても同じことだ。だからこそ私は、逃げ水のように、夢幻に去りつづけようとしたのである。」とあるように、存在という二つ目の故郷から永遠に逃れて行く、遁走する主人公を創造したということになる。

そうして、興味深いことは、主人公が、逃げ水のような遁走の決心をするや否や、次のような事態が出来するということである。

「だが突然おそろしい勢いで一切が崩れ去る。ちょうどあの粘土塀に凍りついた外気のように……。その霧の中に、幅も奥行きもない、己を覗きこむ影が静かに浮び出て……人間が在るように在るという、蜘蛛の糸の謎をひろげる。そのように<<私も在る>>のだという銘をのなかに、私の苦悩を眠り込ませようとして……。」

この引用は、安部公房が10代から20代の始めに書き溜めて、23歳のときに「無名詩集」と題してつくった自家板の詩集の中の次の詩篇を連想させる。

倦怠

蜘蛛よ
心の様にお前の全身が輝く時
夢は無形の中に網を張る
おゝ死の綾織よ
涯しない巣ごもりの中でお前は幻覚する
渇して湖辺(うみべ)に走る一群のけだものを


蜘蛛がこの網の主人公となっている。この詩を読むと、この倦怠という題のもとに歌われた蜘蛛とは、ほとんどその後の安部公房の小説の主人公の意識であるかのように見える。

現存在、Das Dasein、かく在ることを拒否し、そうして同時に(同時とは一体何だろうか)、存在、Das Seinからも逃亡するときに生まれるこの崩壊を、この手記の冒頭では、粘土塀に表象させ、形象させ、象徴させているのだ。

これは、単に言葉の綾などというものではなく、このような散文を読んでも、また詩文を読んでも、実際に安部公房の経験した現実であると思われる。即ち、譬喩(ひゆ)ではないのだ。

夢を語って、そのままそれが現実になっているというこの能力が、安部公房の能力である。


(この稿続く)

「終わし道の標べに」を読む2:安部公房の小説と神話の構造


「終わし道の標べに」を読む2:安部公房の小説と神話の構造

この小説は、「かく在る」ことからの逸脱、逃亡、逃走、遁走の小説である。

「かく在る」ということを、ドイツ語でdas Dasein(ダス・ダーザイン)という。

「かく在る」とは、次のふたつのことからなっている。

1.今かく在る。(時間)
2.この場所、ここに、かく在る。(空間)

これが、Dasein(日本の哲学者は、現存在と訳した)という言葉の意味です。

こう書いてくると、安部公房の小説の主人公たちは皆、「かく在る」こと、即ちdaseinということからの逸脱と遁走の志を持った主人公たちであることがわかる。

これは、簡単に説明するとどういう話かというと、それは浦島太郎の話と同じ話である。

浦島太郎は、あるとき、ある場所で(これが「かく在る」ということ)、子供たちにいじめられている亀を助けるという契機によって、全く別の世界(竜宮城と呼ばれる世界)に行き、そこで暮らして歳月(時間)を忘れるが、その暮らしに飽きて、お土産(玉手箱)を貰って、もとの世界に帰って来ると、自分自身が変容しており、(白髪白髭)のおじいさんになっているか、または世界がすっかり変わっている。

埴谷雄高は、安部公房のこの小説を採用するに当たって、この小説を正しく理解したことは間違いがないと思われる。何故ならば、埴谷雄高の書いていた小説「死霊」とは、三輪家の異母兄弟たちが、人間に同義語反復の文の生成を許さない、または赦さない(これを埴谷雄高は自同律の不快と呼んでいる)、そのような存在(ドイツ語でdas Sein、ダス・ザインという)に対して挑戦する話(長編、長大の散文詩ということができる)だからである。

存在(das Sein、ダス・ザイン)に対して挑戦する以上、当然のことならが、主人公たちは、現存在(das Dasein、ダス・ダーザイン)のあり方から甚だしく逸脱をすることになる。

そのような主人公たちの登場する話を書いていた埴谷雄高は、安部公房のこの小説を理解したことは間違いがないと思われる。

この場合、ふたりの共通項は、Sein(存在)とDasein(現存在。「かく在る」こと)というドイツ語の概念を、よく知っていたということと、そのことに関係してある言語、言葉に対する深い関心と興味、または理解である。それは理解以上であるので、認識といってよい。

埴谷雄高は、その言語に対する認識を、一言、自同律の不快という言葉で言い切り、表した。

安部公房の言語に対する深い関心の持続は、最晩年に至るまで、若い時代から、全く変わることがなかった。

さて、話を浦島太郎の話、即ち安部公房の小説の構造の話に戻そう。

安部公房の小説は、どのような小説であろうと、上に述べた浦島太郎の構造、結構を備えている。これは、神話の構造である。

安部公房の小説は、色々と安部公房の様々な衣装を纏い、意匠を凝(こ)らされてはいるが、いづれも現存在からの逸脱と遁走と、異なる次元での出発点への回帰、即ち終わった地点での逆説的な出発という点では、繰り返し、神話と同じ構造をしているのだ。

カンガルー・ノートでは、浦島太郎の亀を助ける契機に相当するものが、脛(すね)からカイワレ大根が生えてくるという奇抜な着想であった。これを契機として、主人公は全く別の世界、病院という別種の世界に迷い込む。その世界を離れて戻ってくるときに、主人公は何かお土産を貰っている筈だが、それは何であっただろうか。

といったように、あなたも安部公房の色々な小説を読み解いては、如何でしょうか。

「かく在る」こと、即ちdaseinということからの逸脱と遁走の志を持った主人公たちであるというところが、安部公房に特有の、主人公たちの特徴である。

(この稿続く)

2012年8月1日水曜日

「終わりし道の標べに」(安部公房)を読む:第1のノート 終わりし道の標(しる)べに


「終わりし道の標べに」(安部公房)を読む:第1のノート 終わりし道の標(しる)べに

安部公房の愛好した小説の形式が手記である。この処女作がその嚆矢であって、その後の作品の中に同じ手記という形式をとった作品が幾つもある。

何故安部公房は、手記という形式、ノートに書くという仮構を必要としたのだろうか。これは、リルケの「マルテの手記」を当然安部公房は読んでいたので、その影響だろうか。しかし、影響とは一体何だろうか。

言えることは、このような事である。

安部公房>書き手(語り手)>手記の世界>手記の世界の登場人物達>登場人物達の語る世界>.........

という階層構造が、安部公房には必要であったということであり、またこの階層構造を上下に昇ったり降りたり、 場合によっては、書き手のもう一つ隣りの複数の世界に触れ、入っていって、またこの手記の世界に戻って来るというように、作者の意識が垂直方向にも水平方向にも自在に往来できて、そうしてその世界が論理的にあることを作者に保障し、また保証してくれるからなのだと思う。

この手記ということから、わたしは10代の安部公房の孤独を思ってみる。確かにリルケに影響を受けたかも知れないが、利発な少年として、自分自身と対話を重ね、文字をノートに書き、言葉を十分意識して思索を重ね、思弁を重ねて考え抜く、実際に手記を書き、ノートを書いた少年の安部公房である。

ノートに書く、手記を書くということは、絵画ならば、自画像を描く事に等しい。(それは一体、誰の手記、誰の自画像なのであろうか。)

さて、この「終わりし道の標べに」という作品は、一体どのような自画像だというのであろうか。

はっきりしていることは、これは、そのエピグラムをみて明らかなように、安部公房の亡くなった友人(親友といってよい友人)に対する墓標であるということである。

この友人と生きた時間と空間の記憶を葬り、墓をつくり、墓標を立て、そうして弔うために、安部公房は墓碑としてこの作品を書いたということである。

わたしは、安部公房の作品には、どの作品もすべてといっていいと思うが、密かにこの弔うという感情が伏流水のように流れていると思う。もっと言えば、喪われた少年時代を弔う感情である。

この弔いの感情は、晩年になって、思いがけず、仏教のご詠歌として「カンガルーノート」という地面に吹き出して来る。

死出の山路の裾野なる 賽の河原の物語
聞くにつけてもあわれなり
二つや 三つや 四つ五つ 十にもたらぬ嬰児(みどりご)が
賽の河原にあつまりて 父上恋し 母恋し
恋し恋しと泣く声は この世の声とはこと変わり
悲しさ骨身をとおすなり
かの嬰児の所作として 河原の石をとりあつめ
これにて回向の塔をつむ

これは、死んだ子供を回向する、弔う歌である。そうして、ご詠歌という仏教的な色彩を帯びた歌は、わたしたち日本人の心理と意識の古層から湧いて来た歌である。

歴史や伝統というものに、あれほど頑なに(といっていいほどに)抵抗し、あるいは否定し、時間の外に構造的な建築物を打ち立てたいと願って仕事をしてきた安部公房が、晩年になって、このような極々古めかしい日本人の意識の古層に戻って来たということ、それもモチーフは10代、20代初期の意識を濃厚に表わしている「終わりし道の標べに」のモチーフと何ら変わる事なく、その古層に戻って来たということは、わたしには誠に興味深いことに思われる。

このご詠歌は、安部公房の祖父母とご両親の故郷、香川という空海上人、弘法大師さまの遺徳を直接受け継いでいる風土から出て来たものだと、わたしは思う。両親の血であり、その風土から生まれた伝統的な意識だと、わたしが言うと、もし安部公房が生きているとして、このわたしの言葉を否定するだろうか。

資料を読めば、明らかに安部公房は、このご詠歌を気に入っている、好きなのである。

さて、エピグラムを見てみよう。初版(昭和23年10月。真善美社)のエピグラムと最終稿(昭和40年12月。冬樹社)のエピグラムには相違があって、それを比較することで、安部公房が何を考えていたか、何をどうしようとしていたかを見る事にしたいと思う。以下、文庫本の巻末にある磯田光一からの孫引きを。

初版のエピグラム:

亡き友金山時夫に

何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
僕だけが帰って来たことさへ君は拒むだろうか。
そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につながるのかも知れぬが……。

最終版のエピグラム:

<<亡き友に>>

記念碑を建てよう。
何度でも、繰り返し、
故郷の友を殺しつづけるために……。

初版のエピグラムから明らかなように、安部公房は金山時夫という親友の死を弔うために、そうして記念するためにその墓碑として、この作品を書いたのである。

この墓碑銘から解ることは、安部公房がこの親友をとても愛していたということである。ふたりでともに理解し合った濃密、濃厚な時間と空間を共有していたのだと思われる。

この友も孤独であった。安部公房も孤独であった。その死を悼む事が、この親友の思想に反する行為であり、その殺人に加担する行為であるかも知れないとすら言っているほどに。そうして、それほど、ふたりの関係は純粋であったのだと思う。純粋であったとは、この世のものではなかったということである。それほど深い関係であった。

このとき、安部公房は、その親友を殺すことはできないのだ。しかし、仮にそうなるとしても、安部公房はその親友の死を、その友人に相応しい形で、即ち個人的な痕跡を少しも残さずに、しかし仮構された作品として残しておきたかった。

そうして、手記という体裁で、「終わりし道の標べに」という題名の小説を書いたのだ。

安部公房は、親友の死に至って、ひとつの道が終わったと感じだのだろう。それが題名の由来である。そうして道の終わりから、その地点に墓をつくり、墓標を立ててから、新たに歩き始めることを決意した。

しかし、それは何か新しいことを始めるということにはならない。その後の歩みはすべて、その親友の弔いであり、しかも個人的な弔いではなく、もっと普遍性を持たせて、従い上に述べた手記の論理的な構造を使って、一般的な話として、その喪われた経験、その空間と時間の思い出を新しいものとして仮構することが、安部公房にとっての、その後の仕事の、深く隠された意義であったのだと思われる。

最終版のエピグラムには、その意志の転換を見てとることができる。

何度でも、繰り返し、
故郷の友を殺しつづけるために

そのために、安部公房は小説を書いたということなのである。

この場合、もはや故郷という言葉の意味は、具体的な名前のある田舎の土地なのではないことは明らかだろう。

このエピグラムの後、小説の冒頭には、粘土塀が出て来る。

この粘土塀という形象(イメージ)は、その後も安部公房の小説に、幾つにも変形して、変奏を繰り返して現れ、ある時は壁になり、砂になり、他人の顔になり、迷路になり、箱になり、また箱ということから連想されるように、方舟になりして、繰り返し現れるのである。

「第一のノート 終わりし道の標(しる)べに」とある最初のノートの題の次に、次のような一行がある。

終わった所から始めた旅に、終わりはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ。何故に人間はかく在らねばならないのか?……。

この問いと、この問いに答えようとする意識は、安部公房のその後の小説の主人公達の意識である。

粘土塀は、次のように言い換えられている。

1。霧の中で重い乳色に身をすりよせて、追憶にまぎれ忘れられた崩壊
2。あの寂寥にはふさわしい無秩序な道の顔
3。其処(粘土塀)からは果てしもない氷雪の原が、何処からともなく去来する視野に、ときおり過去の、あるいは未来の、赤裸々な調律をのせて送りとどける。

更に文が続き、この粘土塀は、忘却だけが創りあげうる形象であると、実に明確に書いている。芸術家は、本当のことをいうものだ。あるいは、事実という現実について語るものだ。これは、飾った言葉ではない。

この粘土塀の前では、主人公は、「もう自己を断言することさえ出来なくな」るのである。

(この稿続く)