2015年11月28日土曜日

超短篇2:菊と蛸


菊と蛸


朝の電車が橋の上で遅延をした。渡る先の駅で投身自殺があり、橋の上で止まつたままで一時間余が死体の処理に必要だといふ車内放送だつた。

桜木鷹彦は、向かいの席に座る菊姫の美しい脚を、いつもより長く視ることができて幸せだつた。

毎朝眼の前に座るその美しい脚の、いつもみとれる名前の知らぬ所有者を菊姫と、目にした時に名付けたのは、秋と冬の端境の時季の、駅に向かふ途中、いつも通りかかる庭の籬(まがき)の向かうに不図菊の花を眼にした後の、それは、車中での事件であつたからだ。菊の花言葉にある愛情の深さを感じたのだ。

菊姫の時間は奇跡の朝だ、何故ならば、菊姫の美しさからその脚は生まれたが、その脚の美しさは菊姫を生んでゐるわけではないといふ矛盾を、橋の上にゐて、いつもより長く眺めながら味はうことができるから。

嵯峨菊絵は、毎朝電車に後から乗つて来て、目の前の向かうの席に座る若者に気づいてゐた。知られぬやうにこの若者を観察すると、この若者が蛸であることに気づいた。それは、生態学的には、頭が実は胴体であり、胴体の下に脳味噌目玉が付いてゐて、脚が実は脚ではなく腕であつて、腕には吸盤が無数についてゐるのを見たからである。

この蛸は既にして倒錯の生物であつた。

菊絵はこの時とばかりに、バッグの中から包丁を取り出して、蛸の脚の一本の上に包丁を置いて少し手を離すやうにすると、ストンとばかりに包丁は落ちて、そのまま蛸の脚の一本を切落してしまつた。切れ味の良い包丁だ。

菊姫が突然やつて来て、鷹彦の唇を吸つたので、鷹彦は驚いた。もつと吸つて欲しいと思つたので吸ひ返すと、菊絵はもう一度包丁を二本目の脚にストンと落とした。菊絵は、蛸が快楽の声を上げるのを聞いた。菊姫の口吸ひは強烈だつた。鷹彦は唇が菊姫の口の中へと吸ひ込まれてしまふことに抵抗できなかつた。菊絵はもう一つストンと包丁を落とした。快楽の声が上がつた。これを繰り返して、到頭鷹彦は頭である胴体だけになつてしまつてゐる自分を胴体の下から眺めてゐる自分に気づいた。その眼で菊姫を眺めやると、菊姫には8本の脚が吸ひ付いて、体中に吸盤が猛烈な口吸ひをなしてゐるのを見て、蛸の眼と口と胴体は快楽を覚えた。菊絵は快楽の声を上げてゐた。その声を耳にして蛸は一層快楽を覚えて行く余りに、ついに眼と口と胴体に分裂してしまひ、電車の走行が既に再開してゐて、蛸は次の駅のプラットフォームの間の線路に横たはつてゐたのに気づかなかつた。それは一時間余前の投身自殺であつた。

嵯峨菊絵は、快楽でなほ震えてゐる包丁を大切にバッグにしまひ、菊姫となつて、蛸の時間の停止した駅で永遠に下車してゐたのである。