2012年9月17日月曜日

自同律の不快にコメントを下さった方へ

自同律の不快にコメントを下さった方へ

申し訳ありません。ふたつのコメントを公開しようとして、ブログの管理画面で操作をしたのですが、何か間違えて、公開と逆の操作をしてしまい、削除してしまったのではないかと思います。

管理画面にて確認をすると、貴兄のコメントが数字として載って参りません。

貴兄のコメントは重要ですので、再度、お手数ながら、コメントを戴ければと思います。

申し訳ない。

よろしくお願い致します。

安部公房の窓




安部公房の窓

安部公房は、10代のころから、窓というものに特別の注意を払っておりました。

今、ざっとわたしの記憶にある、安部公房の窓の出てくる資料を挙げると次のようになります。

1。中埜肇宛書簡(第4信)の窓氏(1943年)
2。「詩と詩人(意識と無意識)」の窓(1944年)
3。「君が窓辺に」という詩の窓(1944年)
4。「第一の手紙~第四の手紙」の窓(1947年)
5。「箱男」の窓(1973年)
6。「カンガルー•ノート」の窓(1991年)

これ以外にも、もっとたくさんの安部公房の窓があると思います。ご存じの方は、ご教示下さい。

さて、最初の中埜肇宛書簡(第4信)の窓については、次のように書かれています。


ニーチェは僕の目に益々偉大に、物苦しくうつつて来ます。
没落は、実は今の所ある非常に大きな暗礁にさしかかって居るのではないでせうか。十九世紀の歴史的意義は果たして何だつたでせうか。……新しい登場人物。別離と窓氏。

中埜君、どうかニーチェが気が狂ったと云う事と、最後迄ワーグナーの悪口を云ふのを忘れなかつた……あきなかつたと云う事に御注意下さい。人間はあの悲しい反照なくしては自己証認すら足場をなくするのです。……僕がふと見上げる時、人々はつめたく窓をとざす。「これは君の趣味ではないのかね」


とある通りを読むと、ニーチェの名前があるように、そうしてニーチェの創造した主人公、ツァラツストラがそうであるのように、概念の山の戴きから下界の詳細な現実へと下降して来る、その意識のもとに書いた「問題下降に依る肯定の批判」(1942年)で書いたことを意識して、10代の安部公房は、この手紙を書いたのだと思います。

没落の生活をする中で、どうも窓は、他者との通路のようです。また、この当時の安部公房は、窓ということと別離を一緒に考えていたということがわかります。

「詩と詩人(意識と無意識」(1944年)の中に次の文章がありますので、引用します。この作品は2部構成になっていて、第1章が「1。真理とは?」、第2章が「世界内在」と題されていて、考察が書かれています。窓が出て来るのは、この第2章です。少し長い引用となります。


 自己の内面に心をはせて、あの心の部屋と自分に全く無関心な外界との分裂に気付く人は、その間を隔てている永遠の窓を幾度も押し開けようと試みる。けれど何時でも、その窓を押し開けようとして差しのべられた手は力無く、実体を伴わぬ幻影のように侘しく目的を放棄して終わらねばならない。その窓は永遠にと閉ざされているのだ。

 しかし、その分裂の悩みの裡に憧れたその窓の外には、果たして今吾等が見ているが儘の姿が現存するのであろうか。果たして此の窓ガラスは透明に外界の形象をありの儘に我等の孤独の部屋の中に送り込んで来るのであろうか。若しかして此の色とりどりの外界は単に窓ガラスに巧みに画き出されて行く幻ではないのか。それとも此の窓は吾等の心の反照たる鏡なのではなかろうか。

(省略)

 此の窓が、これも亦やはり人間の在り方であると言う事は誰しも認める事だろう。それならば、その窓を通して(と思われる)見えるあの外界の形象も亦、その窓に属するものと考えなければいけないのではないだろうか。と言うのは、その外界は実存すると否とに不拘、既に窓を通して見たと云う特殊の制約を性格として附加されていて、しかも其の窓は人間の在り方と云う体験的解釈である以上、その外界は明かに吾等の体験的解釈を通じてのぞき見たものに他ならないのである。それ故にこそ外界は、<<かく見ゆる>>のである。


この窓は、安部公房の一生を通じて、大切なモチーフ(動機)のひとつとなっています。

安部公房は、カメラがとても好きで、写真をたくさん撮っています。安部公房にとってのカメラ、写真撮影という行為の意義は、この10代に思考して得たこの窓に、その淵源があるのだと、わたしは思います。

そうして、それは、上の引用にもありますが「のぞき見」るという行為は、カメラを通じて行われる、犯罪的な、一種の共犯者としての感情に通じていると思います。

箱男の段ボールの窓を思って下されば、それはひどく自明のことのように思われることでしょう。

そうして、安部公房の撮影する写真が、共同体の内側ではなく、その外側にある塵捨ての場所であったり、また建物の間にある、薄汚れたような、薄暗い、また人の知らぬ隙間の空間、いってみれば、空間と空間の接続部分であるということが、深い意味を持っていると思います。

「第一の手紙~第四の手紙」では、語り手である主人公に仮面と手袋を置いて去った人物が窓辺にいたところで、その人物に仮面と手袋を渡す(その前の)人間が姿を表すのです。

勿論、その仮面とは、後年の他人の顔の仮面であり、顔そのものでありますし、手袋とは、安部公房が「手について」というエッセイで後年書き、また安部公房スタジオの役者達に伝えた、存在の手、neutralな、人間の誕生以前の手なのです。(この手については、散文楽の「安部公房の手3」に書きましたので、お読み戴ければと思います:http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_15.html

「君が窓辺に」という詩の窓は、次のように歌われています。詩の全体を引用します。


光より 光の方へ想ひ流れて
静かなる胸の動きを 君が窓辺に聴き給へ
我が立つ声 嘆きも忘れ
黙すかの如く 君が窓辺に

石の如(ごと) 面をふせ ひそかに偲びて
麗しの陰影は君が姿を居かこみぬ
語るも忘れ もだしためらひ
なげくが如く 君が窓辺に

歩み給へ別離こそ まことの愛ぞ
涙の始め 笑ひの始め
ほのかなる 天使の姿
吾れなえはてし 君が窓辺に

一人して うまし木の実を
なさけだに おとししものを
一人居の天使 吾れに許さじ
涙せし如く 君が窓辺に……


これは、一人称(わたし)の窓辺ではありませんが、わたしと君との間に窓があります。

「詩と詩人(意識と無意識」の窓の文章を読むと、この窓が二人称である君を理解する、君を反照する窓であるのでしょう。そうして、一人称であるわたしもまた窓を持っている。

最後に「カンガルー•ノート」の窓を、その小説の最後からひいいてみたいと思います。もう、ここはほとんど「箱男」の世界と同じ情景です。


 箱が窓の下に据えられ、ランニング•シャツの一群が、ぼくを窓から引き下ろそうとする。(省略)

北向きの小窓の下で
橋のふもとで
峠の下で

その後
遅れてやってきた人さらい
会えなかった人さらい
わたしが愛した人さらい

   遅れてやってきた人さらい
   会えなかった人さらい
   わたしが愛した人さらい

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)


この晩年の詩には、10代の安部公房には願っても得られなかった軽味、ユーモアがあります。

そうして、窓といい(それも北という方向を向いている)、橋といい、また峠といい、いづれも接続する場所だということが、共通していることで、安部公房のセンス(感覚)、生きているという感覚と、生き生きとしてイメージは、これらの接続する場所から生まれて来たのだということがわかります。

これは、10代の散文「問題下降に依る肯定の批判」では「遊歩道」といい、「第一の手紙~第四の手紙」では「歩道」といった場所、通路と全く同じものを意味しています。

このような安部公房の思想を一言でいうと、それは、

物事の本質或は意味は、関係にあり、従い、普通ひとが二義的だと思っている領域に、それは存在する

という思想です。

これが、そのまま晩年のクレオール論(言語機能論)の骨格であり、また、アメリカ論の骨格であった筈です。

これらの論文を是非読みたかったと思うのは、わたしひとりではないと思います。


  

2012年9月15日土曜日

安部公房の手3



安部公房の手3


安部公房全集の中にある「手について」という題のエッセイは、極く短いものでした。

やはり、高いけれども、安部公房が本格的に演技論として論じた手については、「手について」という同じ題の1万円の本を買う以外には無いようです。

さて、今このエッセイを読みますと、やはり安部公房は手というものを「むしろ沈黙の領域に属するもの」だといい、「ものとの関係で初めて雄弁なので」あり、それは「主体の飾りもの」ではなく、それは人間関係の内外にある「見えない物や、見える物が、複雑にからみあいながら埋めている」その「沈黙の領域」を、眼や口とともに、示してくれるものだと書いています。

また、「手は、眼や口のような、直接的な伝達の器官ではない。」と書いていますので、手は間接的な伝達の器官ということになります。

このような文意を読んで来て思う事は、安部公房の思考の中心にある次の思想です。それは、

物事の本質或は意味は、関係にあり、従い、普通ひとが二義的だと思っている領域に、それは存在する

という思想です。

これは、そのまま安部公房の言語論、あるいはクレオール論の核心でもあるでしょう。それから、とうとう書かれることのなかったアメリカ論の。

同じこの思想を、「第1の手紙~第4の手紙」(1947年。全集第1巻)では「歩道」と呼び、10代の散文「問題下降に依る肯定の批判」(1942年。全集第1巻)の中では「遊歩道」と呼んでいるものに同じです。

言語論としての安部公房の言語論は、上のことからも明らかであるように、言語機能論です。

安部公房の言語論については、また稿を改めて論じたいと思います。

2012年9月11日火曜日

埴谷雄高論4(自同律の不快と虚体)


埴谷雄高論4(自同律の不快と虚体)


自同律とは、わたしはわたしであるということを知っているのに、そうして、わたしがわたしであるのに、わたしがわたしではない形でしか、わたしのことを言わなければならないということ、必ずそのようなことになることを言っている。自同律の不快とは、それが不快なことだといっている。

即ち、主語があるので、述語部では、主語以外の言葉を持って来て、主語を置き換えなければならないという、この律ともいうべき、規則のことを言っている。そうして、またそれにも拘わらず、わたしはわたしであるということ、それを律という厳格な規則として、律と言っている。

このことが不快である。何故ならば、わたしはわたしであるということを知っているのにも拘わらず、わたしはわたしであるということが出来ないからである。

(この不快という感情は、若さの故の感情だと、わたしは思うが、しかし、それ故に人を惹きつける。だれでも、このことで苦しんでいるのだ。)

このことが不快である。何故ならば、わたしは、わたし以外の何者かにならなければ、わたしはわたしであるという同義語反復の、自同律の罠に陥ってしまうからである。

人間が、このように、いわば述語的な存在であることに反旗を翻して、存在に挑戦する三輪与志は、重要な主人公なのだと思います。

その挑戦の果てにある、三輪与志の理想の姿が、虚体です。

これは、自然のあらゆる法則を逃れ、逸脱している、一人称のわたしの姿です。








2012年9月5日水曜日

安部公房の読書会


安部公房の読書会があるとて、わたくしは、この週末遠く京都まで行くのである。

作品は、他人の顔。

安部公房全集全30巻が出ていて、そのうちの第1巻は、安部公房のエッセンスが凝縮している。安部公房が横溢している。

この巻は、10代から24歳までの作品を、詩文と散文と両方が収まっています。

この巻を読むと、その後の安部公房の成長、変貌も、根底からよく分かります。

そうして、生涯、安部公房が不変であったことも。

しかし、よく自分の頭で考え抜いたなあという思い、頻りです。

褒むべきかな、安部公房。

人生にとって、一番大切な事は、そのことだけ、自分の頭と言葉で考え抜くことだと言ってよいと思う。

あの人がああいった、このひとがこういったなどという引用話は聴きたくない。あっちの権威、こっちの権威におべっかを使う、世のディレッタントどもよ、お前達は、もう消え失せろ!と、そういいたい気持ちです。

もう、そのように言ってもよい歳になったことに感謝しております。

そのような人間の文章は、最初の一行でわかるので、もうその文章を離れて、二度と読む事はありません。

もう、このように出来るよい歳になったことに感謝しております。

わたしは、あなたが何をどう感じ、考えたか、それだけが知りたいのだ。



ひとは何故言葉で書き留めるのか?




ひとは何故言葉で書き留めるのか?


わたしたちは、日常で膨大な言葉を消費し、また流通させている。そうして、膨大な量の言葉、言葉使い、言ったことごとを即座に忘れる。言った片端から忘れる。読んだ片端から忘れる。聞いた片端から忘れる。

他方、文学という世界があり、そこには古典があって、繰り返し読まれている。

ふと、今気がついたのだが、学ぼうというこころのあるときのみ、ひとは言葉を大切にとっておくのではないだろうか。後日の再読や、参照のために。読み返すために。そうして、それが記憶の中であれ、備忘として文字で書き留めるのであれ、その形態を問わずに。

それでは、書くということ、文字で何かを書くという行為は、学ぶこころに発したものだろうか?と、こう考えてみる。

そうすると、その答えは、やはり、そうだ、文字で何かを書くということは、学ぶということなのだ。そうして、何かを知るということなのだ。それは、忘れまいという意志であり、思い出すという行為である。それが、詩文であれ、散文であれ。

こうして書いていて、わたしは、そうして、わたしが、そのことを知るのである。


2012年9月4日火曜日

安部公房ともぐらについて 2



安部公房ともぐらについて 2


安部公房全集第1巻に「<僕は今こうやって>」と題した、見開き2ページの文章があります。

そこにこう書いてあります。


僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云う事はもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。


この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」とは、なにかこう、いかにも土を掘るような感じを与えます。

この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」のことを、後年、安部公房は「消しゴムで書く」と言っています。

もぐらのように外面をえぐり取るということはどういうことかといいますと、目の前にある物事を形象、イメージに転化して、そのイメージを言葉で表すということ、この仕事のことを言っています。

これが、安部公房のいう「詩以前の事」を語ることなのであり、その形式が、手記という形式なのです。(安部公房にとっての詩と小説の関係について:http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_28.html)


従い、譬喩(ひゆ)でいうならば、安部公房の書いた手記形式の小説とは、みな、もぐらの手記なのです。

遺稿の中に「もぐら日記」という日記があって、その日記にもぐらを冠した安部公房の感覚は、わたしには、よくわかります。

わたしも多分、もぐらの中の一匹なのでしょう。

いや、安部公房の愛読者である、あなたもまた。





安部公房ともぐらについて


安部公房ともぐらについて


普通ひとは、咲いた花しかみない。咲いた花をみて愛で、嘆賞するものです。

しかし、安部公房というひと、あるいはその読者、もっと云えばそその愛読者であるひとは、花などよりも、その花の生まれる土壌とその土の中にある根っこがどうなっているのかということの方に興味のある人間なのだと思います。

種を土の中に播(ま)き、播いた種がどのように発芽するのか、そうして発芽して、それが地上を目指して伸びて行くのか、そのことに興味がある。

これは、まあ、人間がもぐらになってようなものです。あるいは、もぐら人間です。

安部公房の亡くなった後、遺稿のひとつに「もぐら日記」と題された日記があったとのことですが、日記をそう命名した安部公房の心中は、上のようなものではなかったかと想像します。

土の中に穴を掘って、その穴の中で生活する。

このような人間の、日本語の世界での割合と遠い先達は、吉田兼好だと、わたしは思っています。

花は盛りを、月は隈(くま)なきものを見るものかは

富士山や桜の花の嫌いだった安部公房の言葉と発想に実によく似ているではありませんか。






2012年9月2日日曜日

安部公房にとっての詩と小説の関係3:マルテの手記


安部公房にとっての詩と小説の関係3:マルテの手記


安部公房全集第1巻に「<僕は今こうやって>」と題した、見開き2ページの文章があります。

そこにこう書いてあります。


僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云う事はもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。


「第1の手紙~第4の手紙」という作品で、手記を書く事は「詩以前の事」を書く事だと言った安部公房は、やはりマルテにならって、そうしてその手記という形式を全く安部公房流に消化し、換骨奪胎して変形させ、「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記」としたのです。

この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」のことを、後年、安部公房は「消しゴムで書く」と言っています。

そうして安部公房は、その消しゴムを以て、顔を書き、手を書き、壷を書いたのだと思います。

その手記はみな、外面と内面の果てしのない交換のことについての手記でありました。

これが、安部公房の小説の根本にあることだと、わたしは思います。

これが一体どのようなことなのかは、安部公房全集第1巻の「詩と詩人」に詳しく論ぜられております。次のURLで、安部公房のこの10代の散文を詳しく読み解きましたので、お読み戴ければと思います。

http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/07/1920.html


安部公房の顔


安部公房の顔


安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品があります。これは、1947年の作品。安部公房24歳。

第1の手紙は、詩と「詩以前の事」について、
第2の手紙は、歩道について[これは既に「問題の下降に依る肯定の批判」(1942年)という10代のエッセイでは、遊歩道としてっ出て来たものと同じイメージのものです。]
第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]

と、このように、第3と第4の手紙に、顔が出て来ます。

ここに書かれている顔について、理解したところを書きたいと思います。

何故顔と手が主題となるのかということですが、これが実に安部公房らしいのは、顔には人相見があり、手には手相見があって、その人間の人生を過去、現在、未来とみることのできる対象となっているから、その主題となっているのだと思います。

そうして、安部公房の顔も手も、ところが全くその期待(時間の中人間の人生を読むということ)を裏切って、時間というものを考慮に入れることなく、むしろそれを捨象して、時間のない存在として、描かれているのです。

手については、確かにそうでした。それでは、顔についてはどうでしょうか。

安部公房全集の第1巻に「没我の地平」と題された詩集の「光と影」という次の詩があります。その第1連をひきます。


お前の手より名を奪え
お前の胸より名を奪え
夜の標(しるべ)は無名の主我
大地も落ちる無名の星
目覚めに夢む四季の調べを
汝が顔(かんばせ)に読み取るな


この詩に歌われている通りに、散文の世界でも、安部公房は手から名前を奪い、手のあることを「詩以前の事」となし、顔についても同様に、これを「詩以前の事」となして、「四季の調べ」という時間の流れを捨象して、「汝が顔に読み取るな」としたのです。

そのような存在の顔のことを、安部公房は第3の手紙で「運命の顔」と呼んでいます。

この「運命の顔」について、主人公またはこの手紙の語り手に話をする「必ず後ろで絶えず囁き続ける誰か」が登場するときには、必ず語り手は窓辺にいるということが、重要です。

第3の手紙では、窓についてこうかかれています。


窓、それもめったに存在さえ気付かれない、或る精神の媒介、それを透かして呼吸した夜は自分の内部に在って而も自分の名前に属さない部分だ。万物の中で振動している量子の触感だ。その中では、人間である事の宿命的な忘却が、幻覚と云う名前で捨て去って了った、或る実体がよみがえった来る。


これが安部公房の窓です。当時の書簡を読むと、安部公房は友人達と、この窓について議論をしていたことがわかります。


さて、語り手がそのような窓辺にいるときに「運命の顔」について影の男が語ります。

この男の顔、その「運命の顔」を最初みた影の男は、次のようにその顔のことを言っています。


ひょっと其の男の顔を見上げると、これは又どうした事だろう。正に奇怪至極、想像を絶したものに変じていた。でっぱる所が窪み、窪む可き所が飛び出した、まるで裏返しにした様な顔なのだ。一寸能面を裏側から見た様な感じだった。たちまち測り知れぬ恐怖が毛を逆出たせ、鳥肌にして、暗黒の奈落へつき落とされる様な目まいを感じた。


この顔は、一旦顔に装着すると取る事ができなくなり、顔に密着して自分の顔と同じ顔になる顔です。鏡でみると、それ以前の顔となんら外見上は変わらない。

(話は飛ぶようですが、埴谷雄高ならば、このことを自同律と呼び、それは不快だといい切ったことでしょう。)


その顔のもたらした世界のことを第4の手紙では、次のように書いています。


それは即ち、内部と外部とが入れ替わった様な世界だった。(途中略)、云い代えれば呼吸の様な、心臓の鼓動の様な世界だった。そして動くもの、変化するもの、吾々がその中で生活を営む可き環境だとか運命だとか云うものは、その逆に内部から発し、未知なものとして、今迄は外部と呼んでいた、新しい内部に浸み出して行くのだと云う事を知ったのだ。つまり、私の顔は裏返しになっていた。

(途中略)唯、私は一つの行為に身を沈める丈だった。それは停止した時間の中で、各瞬間を想像して行く事だった。云い代えれば、観察し、名付け、愛する主体である存在そのものに身をひそめ潜入する、行為若しくは在り方を全うする努力と意志とでも言えはしまいか。

(途中略)

こうして私の、失われた生活、失われた運命、失われた郷愁、そして長い間忘れてい、これから後何時使われるか分からぬ鋳型の様な、潜入の刹那が始まった訳なのだ。


この文章は、そのまま後年の「他人の顔」という小説の、主人公の意志と意識の説明になっている。


安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学


安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学


安部公房の詩集の題名は「無名詩集」という。


前回書いたように、安部公房の小説はすべて「詩以前の事」を書いたものである。特に手記の形式の小説では、そのことがはっきりと出ていると思う。

さて、そうだとして、またそうであれば、安部公房の小説の主人公はみな、無名の人、無名子であるということができる。

そして、主人公は無知の人間として描かれている。

これは、そのまま愚者の文学と呼んでよい領域の文学のひとつが、安部公房の文学だといってもよいと、わたしは思う。

無知な人間ということは、世間的に見れば、役立たず、無能な人間ということであり、馬鹿者、阿呆者ということである。

イワンの馬鹿(ロシア)や、阿呆物語(ドイツ)等々、他にも色々と世界中に、多分民話のような形であるのではないだろうか。

また、無知な人間ということから、そのような人間は成長して行くわけであるから、安部公房の小説は、無知な主人公の成長を描いた一種のBildingsroman、ビルデゥングス•ロマーン(教養小説)と見る事もできると思う。哲学的な、人間の意識の成長と変化、変貌を描いた相当抽象的で、その意味では相当変わったビルデゥングス•ロマーンではあるけれども。

こう書いて来て、このように考えるのであれば、トーマス•マンの魔の山も愚者の文学だということに気がついた。主人公は、なんということのない平凡な名前ハンスという名前の主人公である。