2014年2月22日土曜日

【カフカの箴言5】


【カフカの箴言5】


【原文】

Von einem gewissen Punkt an gibt es keine Rückkehr mehr. Dieser Punkt ist zu erreichen.


【和訳】

ある点からは、後戻りがもはや無い。この点に、到達すべきである。


【解釈と鑑賞】

この2行は、含蓄のある2行です。

ある点があって、そこからはもう後戻りができない。しかし、この点こそ、至るべき点であると言うのです。

即ち、もう後戻りすることの出来ない、何か絶対的な地点であり、また何かを始めるべき地点でもあります。



【ショーペンハウアーの箴言5】


【ショーペンハウアーの箴言5】


【原文】

Meistens belehrt uns erst der Verlust über den Wert der Dinge.


【和訳】

多くの場合、わたしたちにまづ最初に物事の価値を知らしめるのは、それを喪失することである。(わたしたちは、まづ物事の価値の喪失をして、初めて、その価値にきづくのである。)


【解釈と鑑賞】

これも、人間の真理を穿った警句です。

解釈は不要かと思います。読者各人の喪失を思って、理解をして戴ければ。

この警句はまた、積極的に、自覚的に喪失をするに至れば、物事の価値を知ることができるという反対の一行を隠し持っています。これもまた、真理であると思います。宇宙の真理を知るために、これを行うひとは極めて稀ではありますけれども。しかし、わたしはそのような人間こそ尊い、隠れて尊いと考えております。



2014年2月15日土曜日

【カフカの箴言4】


【カフカの箴言4】


【原文】

Viele Schatten der Abgeschiedenen beschäftigen sich nur damit, die Fluten des Totenflusses zu belecken, weil er von uns herkommt und noch den salzigen Geschmack unserer Meere hat. Vor Ekel sträubt sich dann der Fluss, nimmt eine rückläufige Strömung und schwemmt die Toten ins Leben zurück. Sie aber sind glücklich, singen Danklieder und streicheln den Empörten.


【和訳】


孤独なものたちの数多くの影は、ただ、死の河の洪水を舐めているのにいそしむだけである。何故ならば、死の河は、生きているわたしたちに由来するものであり、そして、わたしたちのういの塩辛い味を依然として持っているからである。すると、次には、吐き気の余りに、その河は、ささくれ立ち、逆流し、死者たちを生命の中へと逆に押し流して、入れるのだ。死者達は、しかし、幸福であえり、感謝の歌を歌い、そして、怒れる者たちをなでて愛撫するのだ。


【解釈と鑑賞】


冒頭、孤独なものたちと訳したドイツ語は、die Abgeschiedenenであって、本来は、分離されたもの、場合によっては死者と同義の、孤独な者、隠退した者という意味です。

とはいへ、まだ死んでいるわけではなく、一人とは言え、生きているのです。

そのような人間たちの影は、といっているところをみると、この孤独な隠退者たちは、文字通りにそうであるひとも含み、実際に社会のなかにいて、しかも尚そのようなものの考え方にある人間達を指して言っているのだと思われる。それゆえに、「孤独なものたちの数多くの影」といって、数多くの影という言葉を主語にしたのだろうと思います。

さて、そうだとして、そのこころの在り方の影は、わたしたちの生きていることから来る影であります。そして、その生活とは、死の河を舐めるのだという。死の河を舐めるとは、死の河の水を舐めるという意味でしょう。

そして、その河の水は、わたしたちの海から来るので、塩辛い。カフカが、人生を塩辛いと、生きることを、その味で呼んだということ、そのように考えていたことがわかります。

わたしたちの海とは、普通に考えると、わたしたちの生まれた、生命のもとという意味ですが、そうであるか、またそうでないかは別としても、わたしたちの生命、生活の由来する源、よって来るところは、海であって、もともと塩辛いものだというのです。

単なる生命讃歌では全然ありません。

また、海は単数形ではなく、複数形でありますから、それぞれのひとたちが自分の海を持っていて、その自分の海に由来していると、カフカが考えていることがわかります。これは、普通の海の形象(イメージ)とは全く別で、この複数の海そのものが、実に孤独です。それ故に、そうカフカは考えている故に、確かに、その味は一層塩辛いのでしょう。

これが、カフカという人なのでしょう。

さて、このような現実の姿を見て、死の河は吐き気を催し、その余りに逆流をして、死者たちを生命の中へ、生活の中へと、戻すというのです。
(この場合の河と訳したder Flussは、単数ですから、どの河もみな同じように一様に行動するという意味になるでしょう。また、こうしてみると、最初の死者の河といっている河は、死者達が流れている河という意味であることがわかります。死者達が流れて河になっているというのです。)

にもかかわらず、即ち塩辛い味のする生命と生活に戻って来ているのにもかかわらず、死者達は、喜んでいて、感謝の歌まで歌うという。
そうして、怒り、憤慨するものをなでて、なだめるというのです。

死の河の洪水とある洪水も、複数形ですから、それはもう何度もしょっちゅう、ひっきりなしに、日常的にやって来るのかも知れません。

さて、第二行目の「すると、次には、」とある、dann、次にはとは、一体なにがあって、その次には、そうなると言っているのでしょうか。

やはり、それは、「孤独なものたちの数多くの影は、ただ、死の河の洪水を舐めているのにいそしむだけである」という現実を見て、ということになるでしょう。その現実に吐き気を催す。死者達は、河のように流れているが、その死者達は、生者の中に生きている死者のごとき(死者そのものではない)生者に舐められるのに堪え難いといっているのです。

従って、その生者の故郷である塩辛い海などには帰りたくない。死者たちもまた、生者と同じ故郷、海に帰る定めのようです。死者と生者が同じところに帰って、一緒になる、そんなことは、いやだ、やってられないと死者達は考えて、生者の世界に逆流して戻って来るというのです。そうして、生者たち、とはいへ、しかし、隠者のように孤独な人間達の住む世界に戻って来る。

この箴言は、2行からなっていますが、最初の一行は、カフカのみた現実を、二つ目の行は、その現実の姿のおぞましさに、バランス(均衡)をとるために、カフカが想像し、創造した二つ目の現実ということなのかも知れません。

そうだとすると、カフカの小説を書くときの動機と、そのありのままの姿が、ここにあるということになります。

死者達が生者の中に生きている世界。何か、ヨーロッパの中世の、死の舞踏と呼ばれる銅版画のある時代を思わせるような気がします。

死者達が帰って来て尚、この世で生きるものの中に怒れる者がいて、死者がその者をなだめ、慰めるという書き方をするほどに、何かカフカという人のものの見方には、情け容赦のないものがあります。怒れる者は、単数形で定冠詞がついていますので、何かその姿は人間の典型であるかのように書かれています。



【ショーペンハウアーの箴言4】

【ショーペンハウアーの箴言4】


【原文】

Reichtum gleicht dem Seewasser: je mehr man davon trinkt, desto durstiger wird man. Dasselbe gilt vom Ruhm.


【和訳】

冨は海水に似ている。飲めば飲む程、ますます喉が渇く。同じことは、名声についても言える。


【解釈と鑑賞】

ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』を読むとわかるのは、この哲学者の譬喩(ひゆ)の能力が卓越しているということ、実にその譬喩がぴたりと来るところで、その譬喩を使ってみせるということです。

これは、実に驚くべき能力だと、わたしは思っております。また、その主著に限らず、この哲学者の著作を読み、その文章を読むときの、これは、楽しみでもあります。

この譬喩はやさしく、全くそのまま、その通りの譬喩だとわかります。解説は不要ではないでしょうか。




2014年2月8日土曜日

【ショーペンハウアーの箴言3】




【原文】

Jeder dumme Junge kann einen Käfer zertreten. Aber alle Professoren der Welt können keinen herstellen.


【和訳】

愚かな若者はみな、一匹の甲虫(かぶとむし)を踏みつぶすことができる。しかし、世間にいる大学教授どもはみな、一匹の甲虫もつ元通りにすることができないのだ。


【解釈と鑑賞】

この箴言は幾らでも、幾つもの解釈が可能です。

対比としては、つぎのような対比があります。行間に隠れている言葉も掘り起こして対比させると、

1。愚者と賢者
2。若者と大学教授
3。甲虫と人間
4。破壊と再生(再創造)

このような対比を往復しながら、この箴言を理解することができるでしょう。

若かけりゃ、破壊一方のものだし、若者は愚かな者であるから、そうしても仕方がないと世間は思はうが、年老いて、年齢相応に知恵も分別も、そして知識もある筈の大学の先生方には、それがなく、ましてや一匹の虫の生命を再創造する自分の無能力に対する自覚もないのだ。そんな知識が一体なんだというのだ。自分を何様だと思っているのだ。宇宙と生命に対して敬虔、謙虚であれ。そこに学問が生まれるのだろうに。


というのは、幾つもある解釈のひとつです。

【カフカの箴言3】





【原文】

Es gibt zwei menschliche Hauptsünden, aus welchen sich alle andern ableiten: Ungeduld und Lässigkeit. Wegen der Ungeduld sind sie aus dem Paradiese vertrieben worden, wegen der Lässigkeit kehren sie nicht zurück. Vielleicht aber gibt es nur eine Hauptsünde: die Ungeduld. Wegen der Ungeduld sind sie vertrieben worden, wegen der Ungeduld kehren sie nicht zurück.


【和訳】

Es gibt zwei menschliche Hauptsünden, aus welchen sich alle andern ableiten: Ungeduld und Lässigkeit. Wegen der Ungeduld sind sie aus dem Paradiese vertrieben worden, wegen der Lässigkeit kehren sie nicht zurück. Vielleicht aber gibt es nur eine Hauptsünde: die Ungeduld. Wegen der Ungeduld sind sie vertrieben worden, wegen der Ungeduld kehren sie nicht zurück.

人間の大きな罪にはふたつあって、これらの罪から、すべて他の罪が導き出されるのだ。即ち、短気と怠惰である。短気の故に、人間は、天国から追放されたのだし、怠惰の故に、人間は天国に戻ることがないのだ。ひょっとしたら、しかし、唯一の大きな罪があるだけなのかもしれない。即ち、短気である。短気の故に、人間は追放されたのだし、短気の故に、天国に戻ることがないままなのである。


【解釈と鑑賞】

箴言、寸言、簡潔に要約する能力というのは、力を要することです。

そのようなことを、外から見ていると楽々とする人間がいるものです。カフカもそのひとりなのでしょう。

日常普段の人間の生活をみて、このようなことを考える。やはり、これはこのまま、このひとの小説執筆能力だと思わずにはいられません。

この場合は、人間の大罪という、ある種宗教的な視点から、日常、現実を眺め、そうして、更に短気という人間の欠点に焦点を当てて、何故人間の日常が天国から遠いものかを、言わずして語るという、相当高度な知恵の働いていることを読むことができます。









2014年2月7日金曜日

【カフカの箴言2】




【原文】

Alle menschlichen Fehler sind Ungeduld, ein vorzeitiges Abbrechen des Methodischen, ein scheinbares Einpfaehlen der scheinbaren Sache.


【和訳】

総ての人間的な失敗はどのようなものであるかというと、忍耐しないこと、我慢ができないことであり、方法的なものに早めに見切りをつけてそれを中断してしまうことであり、(中身の無い)見かけだけの事を見かけだけの杭を打って見せかけの柵を作って囲い込むということなのである。


【解釈と鑑賞】

キンドル本で読むと、他の読者たちがどこにマークアップを何件しているのかを知ることができます。

この箴言は、世界中で、18人のひとたちがマークアップをしています。

気になる、お気に入りの箴言、当たっている箴言ということなのでしょう。

人間の欠点として3つのことを順番に挙げています。これらを仔細にみると、最初の我慢のできないこと、短気、短腹なことが、あとの二つの原因であることがわかります。

堪(こら)え性がないので、折角方法を教わったのに、それを完遂することができずに中途で止めてしまい、焦燥感に駆られて、どうでもよい目先にあるものを大事と囲い込んで大事なもののように思い込む。当人は本当にはそうは思っていないのにもかかわらず。

カフカが何をみて、こういう箴言を残したのかは、わかりませんが、多分仕事の上での上司の判断であるのかも知れず、同僚のそれであるのかも知れません。はたまた、カフカ自身の。







【ショーペンハウアーの箴言2】




【原文】

Das Schicksal mischt die Karten, und wir spielen.



【和訳】

運命がトランプのカードをシャッフルし、そして、われわれ人間が遊ぶのだ。


【解釈と鑑賞】

運命がと訳しましたが、運命という奴がと訳してもよいでしょう。

die Kartenは、トランプのカードのことです。

ショーペンハウアーの譬喩(ひゆ)は素晴らしく正鵠を、いつも、射ています。最近その主著『意志と表象としての世界』全4巻を一気に読了しましたが、本当に読んでいて感心し、唸るような譬喩があちこちに、それも本質的な物事を体系的に論じるところで使われているのが、素晴らしい。

この一行もまた、従い、この哲学者の体系的な思考によって照らされた譬喩のひとつなのです。

Kindleでその主著の中の、運命という語を検索すると、全部で64件出て来ました。

この64のうちから、ショーペンハウアーによる運命の定義を探すと、次のような定義がありました。これが、ショーペンハウアーの体系上の運命という概念の位置です。

Wie die Begebenheiten immer dem Schicksal, d.h. der endlosen Verkettung der Ursachen, so werden unsere Taten immer unserm intelligiblen Charakter Gemäß ausfallen; aber wie wir jenes nicht vorherwissen, so ist uns auch keine Einsicht a priori in diesen gegeben; sondern nur a posteriori, durch die Erfahrung, lernen wir, wie die Andern, so auch uns selbst kennen.


【訳】

出来事が、いつも運命に、即ち、原因の無限の連鎖に従うように、われわれの行いはいつも、われわれの知的な性格に従って、結果するのだ。しかし、われわれが運命を事前には知ることがない以上、われわれには、どんな洞察も、われわれの行為においては、a prioriには与えられていないことになり、そうではなくて、ただa posterioriに、経験を通してのみ、われわれは、他の人を知る場合も同様であるが、そのようにわれわれ自身のことをも知る以外にはないのである。

こうしてみると、この箴言のいう運命とわれわれの関係がよく判るのではないでしょうか。即ち、

運命は、無限の原因の連鎖であるということ。その連鎖をa prioriには人間は知ることができないこと。従い、人間は、その行いによって、従い経験によってしか、a posterioriにしか、自己についても知る事ができないということ。

どのような手を選択し、どのような機に賭けるのかは、そのひとの知的な性格によるということになるのでしょう。

性格こそ財産であるということになります。これは、わたくしの箴言でありますけれども。