2015年9月26日土曜日

『関西魂』(かにたま)を読む



『関西魂』を読む

ある機縁から、関西在住の方達の短編の収録された標記短編集を読みましたので、思ひ、感じたことを、徒然なるままに書かうと思ひます。

わたくしの、怪しうこそものぐるほしけれといふ気持ちが出るかも知れませぬので、ご容赦あれかし。

どの小説も面白く拝読致しました。作者の来歴も全く知らず、作品のみを拝見して、感じたところを述べることに致します。

これは、SF小説だなとおもつたのは、次の3作でした。わたしは多分SF小説が好きなのでせう。

1。『ゾンビーソング』:在神英資(あるかみ・えいし)
2。『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』:新熊昇(しんくま・のぼる)
3。『闇宿る岩』:蒼隼大(あおい・しゅんた)

この3作に共通して抱いた感想は、これは連作の一篇であるか、またはこれが最初の作品であるとすれば、この結構を使つて、そのまま連作(シリーズ)ものが書けるであらうといふことでした。

1。『ゾンビーソング』
この作品の導入部は、半村良の小説のあるものを思はせます。

いつの間にか、読者は読み始めたままの意識で、非現実の世界に足を踏み入れてしまうやうに書かれてをります。現実と非現実が連続してゐる。

さうして、最初の「今日はツイてない日だ」と思ふ一人称の主人公の言葉が、最後まで、一筋の糸になつてつづゐてゐます。このツイていないことの事件の連続は、主人公がゾンビに襲撃されづづける間、スリルがあり、読んでゐて、ある箇所では、恐怖の感情を覚えました。これは、ホラー小説です。

それは多分、話の結構(立て付け)が、ゾンビの棲む街中の描写をして話が進むのに対して、他方、作者は、その街の周辺、周囲にあるものを描かないからではないかと思ひます。この描かない周囲の環境の様子は、作者の手に委ねられてゐて、読者の知らない全体がそこにはあるやうに思はれ、それが冒頭の、これはシリーズものになるのではないかと思ふ理由でもあるのではないかと思ひます。

最後に、ゾンビに追はれて、その途上で救つてもらつて知り合ふことになる男女それぞれ、即ちジンさんいふ年配と思しき男と、主人公が惹かれる亜依加といふ美しい若い娘とのその後の話の展開も、十分にあり得るものと思ひます。ゾンビの街から脱出できたことと、最後にこれら二人の男女が、前者がガットギターを演奏し、後者が歌を歌ひ、主人公がそこにゐて二人の音楽を聴くといふ場面との、この二つの間に作者の置いた、何の説明もなしの、ただ米印を引いただけで仕切つての話の飛躍も、尚そのことを思はせました。

2。『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』
個人的には、この話が一番好きでした。

何が面白かつたかといひますと、その大阪弁の会話がよかつた。それも、古代シリアの王国の貨幣に刻印された女王さまと、大阪に住む若者とが会話をするといふ奇想天外の話が、大阪弁の力があつて、尚面白いものになつたと思ひます。

やはり『関西魂』といふ題名の叢書としてある選集であれば、大阪弁で書いてみるといふのは、ひとつの大切なchallengeではないでせうか。北海道に生まれ育ち、今関東に住む者としては、さう思ひました。

さうして、その話の筋もまた、女王さまの有無をいはさぬ勧めによつて高級ホテルの厨房の料理人募集の記事に応募して、羊肉料理を作る審査試験に、ポケットに潜ませて臨んだこの(大阪弁おおばはんの言葉を喋るけつたいな)古代の女王の助言に従つて、挑戦するといふ若者の話が、実に滑稽で面白いものでした。

最後にこの若者は、女王のレシピが気に入つた審査員の外交官に誘はれて、イエメンへ渡り、そこで女王さま仕様の羊肉料理の料理人として職を得て働き、また説明は省きますが、貨幣の女王もイエメンの博物館に収まってゐて、そこを訪れた若者が女王を見つけ、二人が大阪弁で会話するといふことがまた最後には始まるといふ此の終はり方が、終はるのではなく、開かれてゐて、自作への期待を覚えてしまふのです。

続編を書いてくださると、嬉しい。

3。『闇宿る岩』
この話もホラーSFです。

最初の導入部は、既に読者には承知の人間関係が前提に書かれてゐますので、尚これは連作のうちの一篇だなと思つた次第です。たとへ、さうでなくとも、そのやうな一篇から連作の生まれる結構であると思ひました。

登場人物も多彩で、広く話の展開する気配が濃厚にあります。

岩が女性の性器を形どつたといふ設定ですので、何か古代めいた世界との交流も、また性愛の話もありさうで、読みながら、想像を刺激されること頻りでした。

やはり、この作品も、上記1の『ゾンビーソング』と同様に、周辺が不明、経緯が不明の話ですから、一層さう思つたのでありませう。

この話も最後は開かれてゐる話です。

さうしてみますと、『ゾンビーソング』も同様だといふことができます。

即ち、この3作は、一回限りのコントではないといふことです。(他の作家の話がコントだといふのではありませぬ。)

この話も先を読みたいと、『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』の次に思つた作品ですし、『ゾンビーソング』もさう思つてをります。

しかし、『闇宿る岩』も『ゾンビーソング』も怖いなあ。わたしは、やはり明るい笑ひのある話が好きなのであるなあと、自分の好みを知つたことが収穫でありました。

しかし、もしわたしが小説を書いたらと思ふと、多分明るい小説はかけずに、ホラーかどうかは別にしても、闇夜の小説になるのでせう。この3つの作品は、そんなことを思はせてくれました。

さて、今回の主題は、幻想といふことですので、上の3作以外のすべての作品もまた同様に、現実と非現実の間にゐる主人公を描いてをります。

以下に、ひとつひとつの感想を述べたいと思ひます。

                            (続く)


2015年9月11日金曜日

三島由紀夫が文学と社会の関係を、自分のこととしてどのやうに考へたか



三島由紀夫が文学と社会の関係を、自分のこととしてどのやうに考へたか

「求道する文人の悲願(2) 『戦中派の死生観』 (吉田満 著)」:

これは、若松 英輔さん(批評家)といふ方の吉田満の同著についての感想を書かれたものです。

この文章は、幾つも大切なことを述べてゐる文章だと一読思ひました。そのうち、三島由紀夫についての箇所を以下に抜粋して、お伝へします。文中彼とは、『戦中派の死生観』の著者吉田満のことです。:

一読して明らかなように彼は達意の文章家だが、文学者ではない。職業として彼は最後まで銀行家だった。日本銀行に勤めていた吉田は、大蔵省に勤務していた頃からの三島由紀夫と交流があった。三島は当時すでに小説を発表していてその名前も知られ始めていた。そうした三島があるとき吉田に「自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ」と語ったあと、こう続けた。
「なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場であるとは到底思えない。自分の社会性を思うように満たせるためには、はるかに広い場が必要なのだ」(「三島由紀夫の苦悩」本書八七頁)
 語った本人はのちに作家として立ち、日本だけでなく世界に知られるような書き手になり、三島が考える「社会」と結びつきながら執筆を続けた。しかし、この三島の言葉を字義通りに実践したのはむしろ、吉田の方だった。


この三島由紀夫の考へと其の言葉は、そのまま安部公房を思はせます。


何故ならば、安部公房もまた文壇の狭隘を嫌ひ、一生これと距離を置き、三島由紀夫の死後1970年以降に立ち上げた安部公房スタジオの活動がどんなに表立つて華やかに見えやうともさうであり、即ち反時代的であつて其の中に此の距離を含み、さうして、特に1980年以降の最晩年には箱根の仕事場に籠つて隠棲する程に、自分の求める「社会性」と「広い場」の探究に徹底してゐるからです。

この二人の言語藝術家の共通項は幾つもありますが、その一つは、このやうに、時代に対して孤立を選択するほどに反時代的であり、反骨であつたといふことでありませう。