2012年7月29日日曜日

飢餓同盟(安部公房)を読む

恐らく、30年振りで、安部公房の飢餓同盟を読んだ。

その間、わたしも社会人としての経験を積んだので、これが確かに夢物語だということが解る。

主人公の花井という人物のひとの良さ、世間知らずは、結末を既に最初から暗示しているのだろう。

しかし、夢物語には、夢物語の現実感、現実、realityがあるのだ。そうして、この物語には、それがある。

この小説は、1954年の初刊であるが、今読んでも少しも古くない。それは、安部公房が、時代に寄りかかって書かなかったということを証明している。

ところどころに、後年の小説のイメージを思わせる文章に遭遇するが、このとき作者はまだ、それを表に出してはいないのだと思われる。

花井という主人公の思弁や会話は、しかし、既に砂の女を始めとする安部公房の主人公達の思弁であり会話である。

既に、その種は、10代の散文に十分に播かれていたことは、既に「18歳の安部公房」(http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/07/blog-post_4111.html)、それから「19歳、20歳の安部公房」(1から4。http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/07/1920.html)で考察し、論じた通りである。



Ironieについて


Ironieについて

ドイツ語でIronie、イロニー、英語でirony、アイロニーというこの語に、日本語で一語で対応する言葉は、勿論ない。それは、翻訳上の要請によっても、当然そうである。

やはり、カタカナ語でイロニーというようにこの言葉を使うことにしよう。

わたしがトーマス•マンから教わった重要なことのひとつが、このイロニーであった。

今手元にあるSachworterbuch der Literatur (Gero von Wilpert編纂)をみると、色々なイロニーの意味について説明がしてあり、最後にトーマス•マンのイロニーについて述べていて、それは、

精神が、今ここにこうしているということ(Dasein)の悲劇から距離を置いて自分自身を保持すること

と記述している。

これは、全くその通りだと思う。今ここにこうしていること(Dasein)の悲劇の悲劇とは一体なにかというと、それは人間は、与えられた空間の中と時間の中にいると必ず矛盾の中で生き、矛盾そのものを生きることになることを言っている。

(トーマス•マンは、この現実、この事実をTonio Kroegerの中で、Komik und Elend、滑稽と悲惨と呼んでいる。)

何故、わたしがこのことを知っているのかは解らないが、今ここに、この一次元の流れる時間の中にいると、完全な物事の姿が散乱し、丁度鏡が壊れて粉々に砕け散っているように物事が散乱して見えるのだ。

わたしが社会に出て、わたしという人間を理解するときの難しさが、このイロニーだったのだと、今この年齢になって、しみじみと思う。

随分と自分勝手な人間に見えた事であろう。また、今も変わらず、そのような人間に見えることであろう。

この今ここにあること (Dasein)の矛盾を矛盾でなくするために、ひとは命令し服従するということは、生、生きていることの一面であることは間違いがない。そこに道徳も生まれ、倫理も生まれ、社会も生まれ、人間的な感情も生まれる。

しかし、他方、このわたしの無道徳な感覚はどうしようもないものがある。A-moral.

Aなのだ。無関係なのだ。道徳とは無関係。そもそも、関係がないのだ。

(しかし、アモラルな人間とは、一番美味しいものを、一番最後までとっておき、最後に食べる人間でもあるのだ。それが、普通の人間とは違う。流行を追うことがない。不易である。)

20代に読み耽ったHanser版のトーマス•マン全集にあったマンの評論あるいはエッセイには、

Geist ist Ironie.

と、そう書いてあったことを思い出す。

これは、

Ironie ist Geist.

とひっくり返すこともできる。

イロニーは、この浮き世に散乱して、互いに無関係に見える物事を結びつけ、接続し、関係を発見する精神の活発な働きである。

この言葉の語源は、同じ辞書によれば、ギリシャ語のeironeiaに由来し、ドイツ語でいうならば、Verstellungという意味である。

このVerstellungという語が、Ironieの一番よい説明であると思う。

Verstellen、フェアシュテレンとは、づらすこと、変形させること、別のものに置き換えること、従い、譬喩(ひゆ)すること、何かに譬えること,tranformすることである。

これが、Ironieであり、Ironieの能力、即ち、精神の働きである。

この精神の力は、わたしには何ものにも換え難い、掛け替えの無い、人間の能力だと思われる。

この能力によって、ひとは、一行の文を、それぞれの個別言語において、発し、歌い、また書くのである。

わたしは、よく何かの折りに、わたしは偽物、偽者ではないかという思いに捕われることがある。

夢の逃亡(安部公房):飛行と塀


安部公房の初期の短編に、夢の逃亡という小説がある。

これを読んでいると、その後の生涯に亘って、他の作品にも現れるイメージや発想が、実に詩的に現れることに気づく。

愛だけが法則を無視した飛行をする。

という一行の前後は、遺稿となった「飛ぶ男」の形象である。

また、塀という形象もでてくる。

これは、勿論、「終わりし道の標に」にも最初に出て来る形象であるが、今「夢の逃亡」に同じ形象が出て来て思うことは、塀とは、この世界の謎、謎の世界、世界は謎であるということの表現であり、象徴であるということだ。

(そうして、この塀は、後年様々に変形して、例えば、壁と呼ばれ、砂と呼ばれ、迷路と呼ばれ、箱と呼ばれる。)

安部公房のテキストは多義的であり、本人もそれを十分意図的に意識している。

そのような多義的な自分の作品のありかたを、どこかで、テントを張って、骨組みをすっかり消してしまうという、そのような構築物の譬喩として、述べている。

埴谷雄高論3(自同律の不快)


埴谷雄高の言葉:わたしはわたしであるという文が成立しない、即ち同義語反復になるということを埴谷雄高は、自同律の不快と表現した。


わたしの言葉:同義語反復が不快であるということは、主語が機能化され、述語になり、わたしがわたしではないようになることが不快であるということ、演技すること、役割を演ずることの不愉快である。即ち、わたしがわたしであるという孤独を否定されるからだ。このことから幾千万幾千億の文が生まれてきたし、今も生まれているし、これからも生まれる。

埴谷雄高論2(虚体)


今日、あれこれといろんな事を思っていて想到したのであるが、埴谷雄高が「死霊」において、虚体という概念を最後に持ち出したということは、この芸術家が宇宙は機能の集合だということに想到したということを意味している。

即ち、「死霊」という作品は、異母兄弟のコミュニケーションのメディアの話であったのだということを、自分自身で知ったということである。

これほど自分自身を否定した作家は、日本文学史上にいないと思うけれども。

それは、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

埴谷雄高の死霊という作品について


おお、そうだ、今日埴谷雄高の死霊を読み終えたことをここにしるしておこう。

死霊を一言で言えば、三輪家の異母兄弟が存在(das Sein)に挑戦する話しということができる。

登場人物のひとりひとりが語る宇宙の話はおもしろく、興味が尽きない。これは、ひとりひとりが奇譚を語るという着想と体裁で話しを作っても面白かったと思う。(例えば、ETAホフマンのSerapion Brueder(セラピオン同盟))しかし、埴谷雄高はそれでは満足しなかったのだ。

やはり、最後に難解な問いのひとつは、男女の仲、男女のことだったのだと思う。この作品が、遠大なるSpiel、遊び、遊戯であることを願う。作者の真剣であることの程度とは無関係に、言葉の本来の性質と働きによって、この作品はSpielになっている。最後に虚体がでてきてから、更にのっぺら坊の宇宙が意志を以って出てくるということになると、やはりそうなったかという思いがします。つまり、収まりがつかなくなったのだ。それで充分ではないかとわたしは思う。

素晴らしいことは、自同律の不快、すなわち「わたしはわたしである。」と、人間はいえない現実と事実に抗して主人公たちが戦いをはじめ、それを延々と書くことができたことだと思う。

その間に現れるイメージ、形象は素晴らしい。この空間を綾どるイメージを抜きに、この作品は成立しなかっただろう。そうであれば、それは単なる論理の散文になってしまいます。つまり、これが、埴谷雄高の詩であることが素晴らしいことなのだ。

この空間を綾どる数々の形象の、従属文に従属文を幾つも重ねる様式、スタイルに、埴谷雄高というひとを、わたしは見るのだ。今まで、このような垂直の階層構造を幾重にも備えた従属文で一つの文を構成した作家はいないと思う。日本人の文は、いつもそれを平面的に開いて、助詞「が」と「、」を以って「が、」で以って接続しながら、文章を展開するのだ。その方がわかりやすいから。

このことは、暗に、埴谷雄高の至った宇宙像を示しているとわたしは思う。この小説の構想は20代に胚胎したものであるから、若き埴谷雄高の無意識に至った宇宙の姿だといってよいと思う。

そうしてまた、このひとは、日本語の構造にも挑戦したひとだということになると思う。

わたしも、このように挑戦してみたいものだ。わたしが今ポルノ小説を書きたいと漠然と思っていることも、この埴谷雄高の影響下にあり、また関係のあることのひとつなのだと思う。これはレヴィナスの女性観を否定して、ボードレールの女性観を肯定することになるかも知れないけれども。埴谷雄高というひとは禁欲的なひとだった。レヴィナスもボードレールも否定した。

まだまだ思うところあり。とても、書ききれない。そうやって、沈黙して、想念が熟成して、時間をかけて、わたしの言葉になるのであろう。それが埴谷雄高のいう精神のリレーであることを願っている。

19歳、20歳の安部公房4


第2章の世界内在に移る。

上述した如く、自己の内面と外面の間に窓がある。「正しくは此の窓は吾等の心の反照たる鏡なのではないだろうか。」と安部公房は問い、そうだという。そうして、この窓もまた、人間の在り方なのだというのである。この内面と外面の境域、無意識と意識、夜と昼の間に人間は生存し、また詩人であれば、存在者として、そこにいる。さて、そうして、その窓に映ったものは、窓が人間の在り方という体験的解釈を通じてのものである以上、「<<かく見ゆる>>」外界も、そのような窓に制約された性格を付加されているものである。したがい、また外界は、この窓に「かく見ゆる」が如く帰属しているのだ。これが安部公房の主張である。

さて、外界の形象が窓に帰属するとして、その形象は、何を意味するのかを、次に問うている。この問いを立てるとき、「心の部屋」(内面。無意識の世界)にいる人間は何を思い、どうするのか。それを転身という一言でいっている。その転身という言葉の後に続く文章は、実際に安部公房が少年時代を通じて体験をしてきた事実を言葉で書いているとしかいいようがないものである。いいかえがきかない。あるいは、既に創作になっているとしかいいようがない。安部公房の詩や小説の比喩に典型的な文体のように。あるいは、ひとことでいえというならば、それは詩、である。すこし長いが(それでもこのような文章の3分の1である)引いて見よう。

「これを深く見つめた時、実は吾等の魂に、あの心の部屋に、云う可からざる急激な転身が突如として始まるのだ。ふと気付いて見れば、常に形象に伴ってのみ現れるものと思われていた彼の意味・内容が、何時か一人形象を離れて無限の空間の中に漂っている。それはもう自分達の手の届かない遠くの空へ、星の中に混じって混沌の中へ沈んでいる。それに気がついて吾等はまるで悪夢から醒めた時のように肌をすくめて暗いあたりのひろごりを眺めまわすのだ。そうすると急に闇が恐ろしくなる。始終その暗いひろごりが深さを増して、一刻一刻重くなり、今にも自分を圧しつぶしてしまいそうに思われて来るのだ。きっとあかりをつければ落ち着くに異いない、そう思って業々起きだして灯をともす。」

ここで詩的表現以外には書きようがなかったことは、前節までに得た結論、すなわち、「世界内ム在」と「世界―内在」は、動態的な入れ籠構造(次元変換)になっていて、詩人は、この構造の境界域を、外面を削りながら、消しゴムで消しながら、内面、できるだけ無意識に迫ったその境界面に達する努力を行い、それによってまた、この入れ籠構造は永遠に循環するということなのだ。「こうして世界内―在者としての我は、世界―内在者としての自我までひろがったのだ。」このような生に対する方法を学んだものとして、安部公房は、このような引用の後に、R.M. Rilkeの名前を出して、Herbst(秋)という詩を念頭に於いて、その形象を書いている。

この人間の在り方は、安部公房は、限り無く続くと次のように書いている。

「しかし、より高次の人間の在り方である展開は自ら次元を上へ上へと乗り越えて、限り無き円を回転し続けるのだ。世界内―在にも世界―内在にも留まる事無しに、交互に素速く点滅する光の中を無言の儘に行きすぎるのだ。」「夜も世界も、展開に於いて次元から次元へと転身する行為に於いて、その行為者のみが触れ得るものなのである。静止するものは一つとて無い。総ては巡る。そして其の回転自体も固定した観念としては消滅する。総ての流れは不連続な点の列である。」「そして、夜が、一瞬に於いてその体験的現存在の直覚として捉えられたとき、その一瞬に於いてこそ、彼の果てしなく繰り返して止まなかった世界内=在と世界=内在とは、止揚されて、人間の在り方としての純粋な世界内在となるのだ。」

ここまで読んで来、書き来ると、最後はこのように20歳の安部公房の言葉を引用するだけで、その意図するところを理解するには、もはや十分だとわたしには思われる。

この世界内在を、安部公房は、RilkeのDinge(事物)の持つ永遠の客観性といっている。これは、また、そのまま安部公房のリルケの理解といってもよいだろう。

「世界内在とは一瞬に於ける夜の具体的直覚である。」この次元転換に当たる夜の、従って無意識の、具体的な直覚が、外面を削られ、消しゴムで言語化された、安部公房の独特のイメージと比喩であり、その文体(スタイル)を創造するということなのだろう。


別のいい方をすれば、この「夜の具体的直覚」とは、何を直覚しているのかというと、次のことである:「即ち、現存在は、無数の異なれる次元の断層である。そして直覚とはその幾枚もの透明な硝子板を上からすかし見ることである。その光無き全体こそ正しく夜なのである。」

このような「かく在り」、「かく見る」現存在(das Dasein)は、このように宇宙の全体とむすびついている、連絡しているのだと、安部公房はいっているのだ。このイメージと、このようなイメージを喚起する比喩、そして同時にそのような作品の構造が、安部公房の真骨頂なのである。それゆえ,安部公房の作品は、その細部も含めて,多様な解釈を可能にしている。

以上の安部公房の詩と詩人に対する理論篇の理解を得た訳で有るが、これを以て、その後の安部公房の作品や発言をより良く理解することができることと思う。実際に、全集の第1巻の483ページにある1948年5月3日付のMEMORANDUM 1948と題したメモ中の、夜の会にての花田清輝と野間宏との議論についても、このふたりが何をいい、安部公房がどう考え、答えていたか、相当抽象的な、難解なメモであるが、これとてもよく解るのである。1948年辺りから、他の作家達との交流が始まり、安部公房は詩から小説へと活動を移すけれども、安部公房が無名詩集を生涯大切にしたことを思えば、やはり生涯詩への関心を失うことなく、散文の場合にも(特にその独創的な比喩において)、その道筋は終始,首尾一貫している筈だとわたしは思う。

さて、18歳から20歳の安部公房、詩作をしていた時代の安部公房の作品を読解して得た、安部公房の詩と詩人に対する考え方(この場合、詩人を人間と置き換えても同義である)をもとにして、できることは何であろうか。無名詩集の解釈、安部公房独特の比喩の分析と文体、モチーフと作品の構造を論ずることなど、まだまだ色々とありそうである。

さて、以上理論篇を終わったので、次は、実践篇として、安部公房の詩を読解してみたいと思う。あるいは、鑑賞してみたいと思う。

[以下安部公房の詩を読むについては、詩文楽の次のページへ:http://shibunraku.blogspot.jp/2010/03/blog-post_8716.html]

19歳,20歳の安部公房3


さて、それでは、再び真理とは何だろうか。これが第3節の題である。しかし、安部公房は詩人であって、まづ冒頭にこのように書かねば、論理の展開ができないのだ。

「真理とは曠野に流れる蘆笛の音である。真理とは心理の仮面である。」と。

さて、真理とは何か。それはどのようなものであるのか。安部公房曰く、真理は次の2つの姿をとるといっている。

(1) 真理は真虚の尺度である(コンピュータが普及した今ならば、真偽というだろう)。
(2) 真理は開示性(段階的な次元的展開)を有する。

そうして,真理は、このようであるものであるにせよ、「真理は否定、肯定の圏外にあるものである。真理自体は存在でもなければ、非存在でもない。真理はその有要性、不要性に不拘、敵、味方に不拘、人間の関係者であるという性格を失わない。」何故ならば,真理は、主観を前提にし、主観的な体験を、次元展開することで存在するものだからだ。同じことをまた、「要するに真理は人間の在り方の一性格なのである。」といっている。

安部公房の立場は、次の第4節で人間の在り方を論じるために、真理を「人間の関係者」にすることにある。このことから、人間の持つべき態度として、転身という、次元展開の継続的な姿勢が第4節で言われることになる。

さて、「要するに真理は人間の在り方の一性格なのである。」ということを証明するために、安部公房は、次の文を持って来て説明しようとしている。

「真理は人間の憧憬である、と言う事の中には真理がある。」

最初の真理と後の真理が全く同じ意味ならば、循環、そうでないならば、次元展開だと安部公房はいう。それは、そうだろう。さて、そうして、前者の場合、すなわち循環という場合はあり得ないという。何故ならば、人間には意志があるから、憧憬とは「永遠に人間の手中には入るべからざるものである」からだ。ここで、安部公房は強引に、形式論理学的な解釈ではなく、あくまでもその意味に関する人間性格的な解釈に固執している。そして、真理と憧憬という言葉に。更に、この「~の中に真理がある。」という命題の形式に。

他方、この命題の形式に対応して、「A....は真理である」という文は、「一定の法則的なものとして理性の支配下に置かれて終う。」といっている。これは普通の命題の形式。

だから、安部公房があくまでいいたいのは、前者の「~の中に真理がある。」という命題の形式の方であって、この命題の中にあるふたつの真理は異なるということがいいたいのだ。「此の二つの真理は明らかに次元的相違を持つのである。」という。それは、そうだろう。だから、どうだというのか、一体安部公房は何がいいたいのか。

実は、無意識は(ニーチェの先生のショーペンハウアーならば一言で意志といったことだろう)、様々に展開して、単にこの前者の命題のような2次元の文の場合であっても、とどまることなく、この二つの真理の間に様々な解釈できる文を生成するのだといっている。安部公房は全部で5つの解釈の例を挙げている。(ここの論理展開はむつかしい。一応いいたいことはわかるが、この意味論的な―といっていいと思うけれども―解釈に強引にもってゆくところが、わたしも完全に理解はできていない。)

そうして、証明し得たことは、「真理は人間の在り方である。」ということだと主張している。これが、「第3の客観に到る上述の方法を踏襲して、終に」達した結論である。

しかし、この節の冒頭を詩的文で開始したように、この節の終わりにもまた、安部公房はこのように言わざるを得ない。これが安部公房の詩とは何か、詩人とは何かの解答なのである。詩(無意識の中、意識の下にあると思われる)というものを言語で定義することができないのだ。言語を使って、夜といったように象徴する以外にいいようがないのだ。さて、

「第三の客観とは、正しき主観の上昇的次元展開の極限であった。そして此処には一種の詩的体験が必要なのである。」

そうして、その詩的体験の例として、次に引用する母と子(父親ではない)の比喩は、いかにも安部公房らしいと私は思う。このような体験ができる人間が詩人なのだ。

「そして子が母に選択的に属すると同時に、それから分離して新しき世代の独立者になる如く、此の客観も、其処に収斂して行った主観の個別的性格から離れて、何時か宇宙的な詩的体験として、是も亦純粋な人間の在り方に昇華されて行くのである。」

そうして、この節の最後には、次節と次章の結論を既に先取りして次のように書いている。

「即ち、此の世界内―在と世界―内在との一致した諸々の次元展開の極限に於いては、客観と真理とは、単に人間の在り方の表現的相異として認識せられるのである。」

「世界内―在」と「世界―内在」は、動態的な入れ籠構造(次元変換)になって、詩人は、この構造の境界域を、外面を削りながら、消しゴムで消しながら、内面、できるだけ無意識に迫ったその境界面に達する努力を行い、それによってまた、この入れ籠構造は永遠に循環する。この構造を安部公房は18歳の「問題下降に依る肯定の批判―是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である―」において「実を云えば現代社会はそれ自体一つの偉大なる蟻の社会に過ぎないのだ。無限に循環して居る巨大な蟻の巣。而も不思議に出口がないのだ。」と書いているのだと私は思う。

さてこの節の結論は、次のような文で締めくくられ、第4節へと繋がっている。

「かくて総ての現象表象は、唯一つの人間の在り方の次元的循環に回帰するのだ。そして此の事を更に明確ならしむる為、吾等は<<人間の在り方>>を、その表象並びに内容について更に批判展開せねばなるまい。」

安部公房のおもしろい特徴は、こうして書いて来てみると、「総ての現象表象」と書いておきながら、決して認識するという用語を使用しないことだ。そうではなく、存在論的にだけ考えて(勿論表象を存在論的に論じることはできるけれども)、人間の在り方に関係させて論ずることだ。

この第3節で到った結論は、いうまでもなく、安部公房の小説や作劇の抽象的・哲学的な説明になっている。これを実存主義というかどうかは、考えていることが、これほど自明であれば、どうでもいいことのように思われる。

第4節の概要を述べる。

さて、人間の在り方である。これは、これまで述べ来った通り、解説した通りである。安部公房がこの節で強調するのは、態度である。それは体験的態度、すなわち「考える事よりも見つめる事、学ぶ事、そして批判する事」である。また、この態度は、「問いかける者の態度」と呼ばれている。「問い掛けの在り方=態度の昇華こそ、人間の在り方を決するのである。」それは、どのような態度であるか。前節までは、言語の側から無意識を意識化し、次元転換を繰り返すひとを詩人と呼んでいたが、この節では、前節の第3の客観に到る方法を駆使して得られる無意識、すなわち夜による自己の自覚と、果てしない次元変換のすえに到達する純粋な意識的な客観の把握とを、自己承認という言葉で統一的に表している。この時、安部公房はハイデッガーというドイツの哲学者のいう「実存の日常性、即ち現存在の優位性」といういいかたで、自説の補強をしている。「その日常性が純粋に取り上げられて生存者の選択性をその本質に於いて展開した時、そこに在るのが自己承認なのである。」これは、上述の母と子の比喩を、自己承認という言葉を使って、いいかえたものである。言おうとするところは変わらない。

そうして、どうしても安部公房は、無意識というよりは、やはりただただ夜といいたい。このような象徴的な言い方以外には、できないといっているかのようだ。「夜は決して理性の作品ではない。又体験から割り出されたものでもない。体験自体なのである。夜はまねかれた客人ではない。夜は此の部屋に満ちる空気である。総てをかくあらしめるもの、それが夜である。」「夜はかくあらしめるものであった。」「此の<<かくあらしめる>>は意識され得るものでないことは明らかである。」

さて、このような夜と、人間の在り方の関係や如何に。このふたつはもともと、その本質において同じものだと、安部公房はいう。夜はものという「対象化的手法」に依ったというのに対して(恰も夜に意志があるかのようだ)、人間の在り方は、夜が「<<かくあらしめる>>」という(人間に及ぼす)行為的表現であるというだけだからだ。「つまり、人間の在り方は夜であり、夜は人間の在り方なのである。」

ここの所の安部公房の論理展開のむつかしさ、あるいは苦しさは、徹頭徹尾認識論を排除して議論を進めようとしているからだとわたしは思う。ショーペンハウアーならば、意志と表象としての世界といっただろう。そうして、認識論と存在論で、このふたつのことを論じただろう。

さて、「問いかける者の態度」をもって、「此の展開された日常性への没落の中にのみ此の此の人間は捉えられるのだ。」そこで、初めて、人間は、「存在者」になるのだ。そのとき「人間の在り方」が本来の意味で実現する。この実現を、安部公房は、「体験的象徴」といっている。この在り方は、夜と同じ「記号的象徴」である。

この第4節で安部公房のいいたかったことは、こうして読んで来ると、結局、夜のことであり、人間の在り方であり、存在者である詩人のことであり、そのような詩人の象徴的な在り方のことである。それを何故か、自己承認ということばを使用して、再度繰り返して、今までのことを纏めてみたと読むことができる。

第2章の世界内在に移る。

(続く)

19歳、20歳の安部公房2


もうひとつ、「詩と詩人(意識と無意識)」を読む前に、「僕は今こうやって」の論旨をまとめてみよう。ここで、安部公房は、外面と内面とその境界面または接触面について書いている。僕が感じたり、また僕はと発話するか、または「僕は」と文字で書いたとしても、それはすべて外面にあるものだという(「詩と詩人(意識と無意識)」では、外面を意識と呼び、内面を無意識と呼んでいる。無意識を夜と呼んでいて、「夜は亦定義され得るものでもない。」と言われている)。そうして、安部公房は、この接触面を見極める事が大切だと主張している。この面は、「努力して外面を見詰め、区別し、そしてそれを魂と愛の力でゆっくりと削り落として行く事なのだ。」

この短い見開き2ページのエッセイで主張しているのは、ただこれだけである(その哲学的な思考展開は、「詩と詩人(意識と無意識)」において、更に執拗に行われている)。この外面を内面と区別し、外面を削り落して行って、内面(無意識)とのぎりぎりの面を見つけること、これを同じエッセイの中では、「いわんや言葉は、唯生の窪(くぼみ)を外面から削りとる事丈なのだ。」と言っている。このように見ること、その見方(「生を思考する方法」)を、安部公房は、リルケのマルテの手記に見たと言っている。

おもしろいことは、安部公房が、言葉とは「唯生の窪を外面から削り取る事丈」であり、「マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記」だと言っていることである。「詩と詩人(意識と無意識)」を読むと一層明瞭なのであるが、安部公房は認識論的に思考しない。時間を捨象して、存在論的にものごとを論ずる。これが安部公房の思考の特徴である。これは安部公房という人が、数学に秀でていたこと、特に幾何学が好きだったことと関係のあることだと思う(初期の小説のなかのあるものには、位相幾何学の好きな中学教師というのも出て来る)。

(*)「安部公房の劇場」(ナンシー・K・シールズ著。新潮社刊)22ページにも、次のように言われている:「ノノ安部の純粋数学、とりわけ非ユークリッド模型の研究を伴う位相幾何学に寄せるか愛着も、それに劣らず重要であった。安部のイメージの多くは詩的な数学的観察から生まれており、その観察が、安部の神経を張りつめた精密な調査の下で、思いがけないものの性状を典型的にあばいて見せていた。砂丘のような現象、昆虫、檻、微笑、鞄は、研究され尽くしていた。時空という抽象概念は、何にもまして安部の心を占領していた。安部はそういう抽象概念を量子物理学者のように熟考していた。ノノ」

言葉とは「唯生の窪を外面から削り取る事丈」。安部公房というひとは、削って書いたということになる。このひとにとって書く事は意識と無意識の境界面を見極めるために言葉で外面を削り取るという仕事であった。これを後年「消しゴムで書く」と言っている。ここまで概念化すると、「消しゴムで書く」という文も、比喩ではなく、事実その通りの行為だと思われる。

「詩と詩人(意識と無意識)」では、この内面と外面の接触面にある、永遠にそのふたつを隔てているもの、そうしていて外面が内面にその「外界の形象を送り込んで来る」当のものを窓と呼んでいる。勿論この窓は疑うべき対象であり、「果たして此の窓ガラスは透明に外界の形象をありの儘に吾等の孤独の部屋に送り込んで来るのであろうか」と否定的な自問としていわれる。この問い立てからして既に安部公房の世界だ。勿論、窓はそうではなく、「吾等の心の反照たる鏡なのではなからろうか」というのが、20歳の安部公房の結論である。このように考える安部公房の世界は再帰的(recursive)である。

(*)この窓の議論は当時の友人達とした形跡があり、中の肇宛て書簡(1943年12月6日付)では、「ノノ新しい登場人物。別離と窓氏」とある。これは、1943年、安部公房19歳のときの議論。また同時に議論されている別離という言葉も、安部公房にとっては大切な言葉であり、概念であった。無名詩集の最後は、別離に関するリルケの引用で終わっている(「別離は出発の始めである」)。

(*)安部公房には最後まで心の中に少年が棲んでいた。上記ナンシー・K・シールズに対し、ある時、安部の多忙を理由に遠慮したにもかかわらず、羽田国際空港までわざわざ見送りに来てくれて、言ったはなむけの言葉:「長旅だから、だれか見送る人が必要なんだ」

この先へ行く前に、このエッセイの全体を眺めてみよう。このエッセイは、2つの章から成っており、第1章は、真理とは何か、主観と客観、人間の在り方について、第2章は、世界内在について論じられている。このエッセイの題からいって、これは、(詩、詩人)と(意識、無意識)を論じたエッセイだということをこころに銘記しておこう。

結論からいうと、第1章は、第2章を準備し、書くためにある。結論は、世界内在を論じた第2章である。「僕は今こうやって」では、メモ書きのように書かれてあったものが、ここでは存在論的にもっと突っ込んで論じられている。キーワードは、世界内在(これは「世界内―在」と「世界―内在」の統合概念。このふたつものの往来と次元の転位を、安部公房は詩人の「転身」と呼んでいる。これはまた、安部公房がイメージや比喩を創造する方法論、methodology、でもあった)、人間の在り方、態度、かく見ゆる、次元、転身(「僕は今こうやって」では「変容」とも言いかえられていた。「詩と詩人(意識と無意識)」では、次元展開とも言い変えられている。)である。これらのことについては後述する。

さて、第1章を見て見よう。第1節は、真理とは何か。ここでは、ひとことでいうと、その議論の仕方はともあれ、真理は客観的な絶対的、唯一のものではなく、相対概念であり、従って複数あるということを言っている。もし真理がそうであれば、人間は不安になり、その「意識は自己懐疑の嘆きの裡に、自分に先行するものを求めようとする。」そうして、そのようにもとめられた真理は、ふと気付いてみれば、「やはり、冷たい木枯しにたわむれつつ、一人冬の中に置き忘れられている。」よりほかないのだ。それは何故かを説明するために、安部公房は主観と客観ということを第2節で論ずるのだ。そうして、第3節で「再び真理とは何か?」と題して、真理と意識、従って、無意識の問題を論じ、第4節で人間の在り方を論じて、第2章の世界内在における次元展開、詩人の変身を論じている。

第2節では、主観と客観とは無意識の世界、夜においては分離することはできないといっている。

また「主観・客観はやはり未解決の儘で差し出された両手の凹みの中に残されていたのだ。」(この両手の凹みというイメージは、安部公房がリルケの形象詩集の中で一番好きだと1943年11月14日付中の肇宛て書簡で引用しているHerbst(秋)という詩が念頭にある。)そのために主観と客観は、誤用や混用が甚だしいという。

さて、人間が無意識を言語化して、意識の俎上に載せようというときに、主観と客観が分離してひとつの次元を構成するのだ。この主観と客観は有意味だろうか、それとも無意味だろうか。この問いに対する解答は、肯定と否定とふたつある。しかし、安部公房は第3の主観と客観の関係があると主張する。

客観は、主観を通じて存在する。「主観的体験のみが、あらゆる意識を言葉たらしめるのである。」こうして無意識が言語を通じて意識化される。その意識化の程度は、その人間の「生存者としての人間各個の内面的展開次元の相違に従って、その言葉の重さ(含まれている次元数)の相違が考えられる。」即ち、その言語化された文が、何次元の文かによるといっている。「では、此の主観のつもり行く次元展開の究極は、一体何を意味するのであろうか。」と自問自答し、安部公房は、その究極の、次元数を求める果てに、客観的に独立して外面にあるのではない、個人の内面にある(当然削るという行為を通じてあらわれる)客観が現れるのだと言っている。そのような客観には、「吾等の初源の声がある。」「そこには一瞬に凝縮された、実存的な永遠がある。そしてこれこそ客観の存在論的解釈として正当なものではないだろうか」といっている。このような客観を自らのものにする人間のことを「完成された宇宙的詩人」と呼んでいる。また、その客観を「第3の客観」と呼んでいる。

(*)1946年12月23日付中の肇宛て書簡では、このような詩人を自分に擬して、次のように書いている:「詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てて生きるという事は、恐らく僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思います。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な存在自体――愚かな表現ですけれど――であればよいのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作と言ふ事が必要なのです。これが僕の仕事であり、労働です。」

さて、それでは、再び真理とは何だろうか。これが第3節の題である。しかし、安部公房は詩人であって、まづ冒頭にこのように書かねば、論理の展開ができないのだ。

(続く)

19歳、20歳の安部公房


安部公房は、19歳のときに「僕は今こうやって」を、20歳の時に「詩と詩人(意識と無意識)」というエッセイを書いている。

「僕は今こうやって」というエッセイは、一言でいうと、18歳のときに書いた「問題下降に依る肯定の批判」で論じた内と外の問題に加えて、それ以外に「転身」または「変容」と呼ぶ個人の意識の次元変位的なありかたの重要性に言及したものである。

「詩と詩人(意識と無意識)」(20歳)は、「問題下降に依る肯定の批判」(18歳)を、「僕は今こうやって」(19歳)で言及した転身または変容の問題を、存在論の観点から論じ、まとめたエッセイである。安部公房の思考する問題は18歳のときのエッセイを離れることがない。継続的に、意識して、問題下降と概念から生への没落を自分の頭で考え抜いたのだ。その到達点が「詩と詩人(意識と無意識)」である。これは、人間とその意識のあるべき姿を論じた存在論であるが(安部公房は認識論的に論ずることがない)、これと表裏一体となって、無名詩集ができている筈である。その吟味は後日にしようと思う。少なくとも、特に哲学用語のよく出て来る初期の小説は、そのイメージも、比喩も、言わんとするところも、「詩と詩人(意識と無意識)」を読むことで理解することができる。また哲学用語を使わない小説であれ、このエッセイを読むことで、晩年に到るまで、その小説が何故そのようなイメージや比喩や、従ってそのような文体で書かれているかを理解することができる。このエッセイを読むと、安部公房は、10代から晩年に到るまで、終始一貫、首尾一貫していることが解る。

本題を少しはずれるが、1947年6月17日付(安部公房23歳)の中の肇宛て書簡の中で、無名詩集について「此の詩集で僕は一応是迄の自分に解答を与へ、今後の問題を定立し得た様に思っております。」と書いている。中の肇は、成城高等学校の時代から、安部公房の哲学的な思索について議論をしてきた友人達のうち、特に重要な友達である。その成果が無名詩集であるといっている。他方、そうやって議論もし、その間思索してきたことの成果は、「詩と詩人(意識と無意識)」(20歳)にまとめられていると考えてよいと私は思う。


その事を証明するのは、1947年7月5日付中の肇宛て書簡の中の、次の文章である:「僕が最初に実存哲学なるものを発見したのは、キエルケゴールやハイデッガーに於いてよりもむしろ、リルケとニーチェに於いてだつた。しかし是は勿論実存哲学とは名付け得ないかも知れない。とにかく僕は其處から出発した。そして四年間.......僕の帰結は、不思議な事に、現代の実存主義とは一寸異つた実存だつた。僕の哲学(?)を無理に名づければ新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギーの上に立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴の創造的解釈、それが僕の意志する所だ。」



(続く)

18歳の安部公房


1942年12月に、18歳の安部公房は、「問題下降に依る肯定の批判ー是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である―」というエッセイを書いている。全集で5ページと少しの分量。

このエッセイは、一言でいうと、人間としての個人の判断の根拠を問うものだ。その問いを問題といっている。問題下降とは、その解答を現実の今ここに見つける努力のことをいっている。当時の友人のひとり、中の肇宛ての1943年10月26日付の書簡では、「概念より生への没落」と表現している。この友人宛てのその他の書簡も読むと、この成城高等学校時代に読んだのは、ニーチェとリルケ(その形象詩集)である。Untergangとドイツ語を使っている手紙もある。いづれにせよ、この没落はツァラツゥストラの没落に比されている。

さて、冒頭の題の意味は、このような問題下降により、この私のこのように今ある現実を肯定することで時代と社会を批判するという事をいっている。批判するためには、「動かなくてはならない。そして動かさなくてはならない。手を、指を、そして目と鼻を。」といっている。このような行為を、安部公房は、座標なき判断と呼んでいる。これを真の反省といい、自覚的な努力といい、「自覚の最初の自覚的発生」といい、「基底となる可きもの―例えば人間存在ーに迄立ち戻る」ことと言っている。この座標なき判断は、当の個人が行う「総ての判断は指で触れ,目で見た上で為されねばなら」ない。そうして「其処に始めて最も小さな最初の肯定が生れる」といい、 このような肯定を「否定的問題下降の絶対的肯定」と、18歳の安部公房は、呼んでいる。これが冒頭の題の前半、主題部分の意味である。

また、座標なき判断は、宇宙のすべてを知る事ができない天文学に喩えて、この批判の方法は、同時に「全体的な学の形式を取る事が要求される」といっている。後年は,あるイメージの周りに、それまでのあれこれの断片が結晶するのだといっていることと同じことが言われている。ひとことでいえば、この批判の方法とそれによって生れる作品は、体系的でなければならないということ、構造的でなければならないということである。

さて、その批判の対象となるものは何かというと、その対象となるものについていっているのが、題の後半、副題部分の「大いなる蟻の巣」である。人間のつくっている社会の全体を蟻の巣に擬している。大いなるとは、文中では偉大なると言い替えられていて、この形容詞は勿論Ironie, アイロニーである。安部公房のHumor、ユーモアを感じる。人間は偉大なる蟻であり、その構成する社会は、偉大なる蟻の巣である。「実を云えば現代社会はそれ自体一つの偉大なる蟻の社会に過ぎないのだ。無限に循環して居る巨大な蟻の巣。而も不思議に出口が殆ど無いのだ。」

と、ここまでエッセイの文を引用してみると、殆どその後の安部公房の小説や作劇の世界の要約であるかのように思われる。遅くとも、この18歳のときには、既にして、後年の安部公房の発想の型は、その比喩も含めて出来上がっているように思われる。このとき、ユ―プケッチャという虫も生まれていたに違いない。従って、箱舟さくら丸も。

さて、その蟻の社会の出口を求める座標なき判断が、「出口を求める」行為であり、「大いなる蟻の巣を輝らす光である」、その方法なのだ。その方法によって自覚的に生れる場所を、安部公房は「遊歩場」と呼んでいる。安部公房の諸作品の主人公達が求めた、これは、場所ではなかろうか。


この場所は、「一定の巾とか、長さ等があってはいけないのだ。それは、具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念でなければならぬ。」(概念から生―混沌―へ、生から概念へという思考のプロセスと、そうやって生れる作品のイメージと構造)

この場所は、始めにあったものではなく、「二次的に結果として生じたもの」(晩年のクレオール論を読んでいるような気がする)であって、その理由によって都市の中から直接その外、郊外に接続しているものであり、「範囲的」に郊外地区を通ってゆくものであってはならない。それは、何故かというと、市外にある「森や湖の畔に住う人々が、遊歩場を訪れる事があるからだ。遊歩場は、都会に住む人々の休息所になると同時に、或種の交易場ともなるのだ。」(ここのところの原文は、後年の安部公房の小説を読んでいるような感に捕われる。)

当時安部公房の接して居た直かの社会、すなわち高等学校は、かくあらねばならない場所だと主張している。勿論、現実はそうではないといっている。


「それに、現代はそれ以上の事に関しては、私に沈黙を要求する。結局要は問題下降の唯一無条件的肯定のみになるのである。」当時の「現代」とは戦時下であり、対外的、社会的な批判は赦されていなかっただろうから、こうして、かくあることを体系的に考える(本当は思弁といいたいけれども)ことしか、できなかったといってるのだ。

このエッセイの中で、同じ試みをした先人の名前として、ニーチェとドストエフスキーの名前が挙げられている。

このエッセイをまとめると以上のようになるだろうか。



思考のメモ:交易、交換とはエロティックな行為である。なぜなら、それは互いを未分化の状態におくことになるからだ。

安部公房の処女作


安部公房について思うことを箇条書きにメモして後日の備えとしよう。

1。処女作には、その作家のすべての芽があるといわれる。その通りで、終りし道の標にという作品は、その後の安部公房の作品のプロットの原型になっている。それは、どのようなプロットであるか。

(*)それはひとことでいうと孤児の文学である。

2。これは、家長に、つまり長男に生まれついたことを否定する男の書いた小説だ。従い、この作家の書く小説は、消極的な(そういう意味では屈折した、裏返しの)家族小説、一族小説である。だから、偽の父親も出て来る。

3。安部公房の小説には、主人公が陰陽ふたりいる。

4。ノート形式での叙述。

5。芥川賞を受賞した作品、壁、これを第二の処女作と呼べるとしたら、やはりこの作品にもその後の安部公房の諸作品に登場するイメージが書かれているからだ。試みに列挙すれば:無名の主人公、病院、便所、箒をもった老人、制服、泥棒と探偵、洞窟と迷路、偽の父親、自分の部屋(空間)、そこからの脱出、自己から自己へ、ノアの箱舟。

2012年7月28日土曜日

安部公房の「けものたちは故郷をめざす」を読む


安部公房の「けものたちは故郷をめざす」を読む

これは昭和32年(グレゴリウス歴1957年)に初刊の作品。

大東亜戦争敗北後の満州を、日本に向けて脱出を図る日本人の若者、久木久三が主人公の長編小説です。

高という日本人との混血の正体不明の大陸人(支那人か朝鮮人か不明)と一緒の逃避行を描いたもの。

最初と最後に、安部公房に特有の塀というイメージが、主人公を受容れない何かの象徴として、現れます。この塀という形象は、その後も繰り返し、変形して安部公房の小説の中に姿を現します。

曰く、壁、曰く砂、曰く迷路、曰く、箱。

その間描かれるのは、餓えと寒さの連続。そうして、人間の互いの心理の変遷です。

主人公が最後に日本の港に着いても、足枷で船に繋がれていて上陸できないという最後は、上に述べた塀のイメージ、形象と重なって、その後の安部公房の小説の日本文学における独特の位置を示しているのだろうか。

埴谷雄高と同じで、安部公房も一人屹立する孤峰である。

散文楽を開設します。



安部公房のことを思っていて、いよいよ散文のブログを書くタイミングが来たという感じがしますので、ここに本日散文楽を開設します。

このブログは、詩文のブログ、詩文楽に対する、散文のブログです。

ご贔屓、ご愛顧下さい。