2022年6月18日土曜日

西村幸祐著『九条という病』を読む

西村幸祐著『九条という病』を読む


言語の観点からこの本の内容を一言でいへば、「九条という病」といふ題名の病といふ言葉が隠喩・メタファであるわけの、隠喩とは本来は譬喩(ひゆ)なわけですが、これが事実になつたといふ現在の事実を、この本は解説してゐる。そのやうな本であるといふことです。即ち、


私の文学的知見によれば、個別言語を問はず、文化が成熟するか退廃するかの極端な状態になつて、それでも依然としてその言語をつかつて生きる人々が隠喩・メタファを使ふ時代には、成熟であれ退廃の極みであれ、その隠喩は事実として世間にイキイキと現実感を以つて生き始めるのだといふことです。これを私は中世ドイツ文学の叙事詩とキリスト教の盛期である13世紀の文学に学びましたが、今これを詳述する暇(いとま)はありません。日本語でも同様のことが今起きてゐるといふことがいひたいのです。絶対的な唯一の何かが極まり、その後に個人の解放が来る。ヨーロッパの14世紀からのルネサンスの始まりがあるやうに。そのやうに著者のいふ「中世スコラ哲学」としてあるかの如き同類の言葉に「平和憲法」といふ言葉があり、この言葉もまたかうして、単なる隠喩にすぎなかつたといふことが明らかに、著者の筆法によつて、されるのです。その極まつた言葉が九条であり、9条は病である。といふ事実なのです。もはや9条と平和憲法が事実であるかの如き夢見る時代は終はった。曰く、


「実際、我が国の憲法学者なる存在は、中世スコラ哲学の聖職者のように、憲法の〈聖書〉としての解釈だけに一生を費やすという世にも稀な滑稽な存在として知られる。」


因みに、本物の中世スコラ哲学者を私は積極的に擁護したいのは、この神学者である哲学者たちの原理的な基礎にもとづく形而上学的議論は煩瑣のやうに見えて実に思考論理上古代ギリシャ哲学に学んで厳密であつて、これを基礎にして此処から近代の17世紀以降の哲学が生まれて、今日に至つてゐるからである。西欧近代の哲学は神学の一部としてのスコラ哲学から生まれたのです。そして其処から科学が生まれた。


さて、しかし、日本国憲法スコラ哲学者たちから何が生まれたか。本物の中世スコラ哲学者は唯一絶対神の存在を証明するために思弁議論した。対して、日本の偽スコラ哲学者たちは、何の存在証明をするためにものを考へたか。と問ふてみれば、憲法の存在証明など容易いことではないか。何故なら、これは人間が書いた作文の一種であるからには、少しも神聖にして犯すべからざるものではない。と、此処まで書いてきて、なるほど、これは今や括弧付きで「戦前」と書かねばならぬ「戦前」の継続を根底に秘めた無反省の心理から発した、天皇陛下といひたくないがために依頼心を起こして頼つてしまつた実は「天皇陛下」であることが明らかであるといふことになり、その結果自分自身といふegoが、この哀れな人間である自分が永遠に生きるための糧として日本国憲法を考へ、その挙句に自分が唯一絶対神になつてしまふといふ錯誤をして、自分以外の他人の口を封じて、全体主義国家を生みださう。さうしたら日本の国も世界の諸国もまた、自分に逆らわないから平和であるだらうといふ倒錯した妄想の論理を延々と論じてきたのが、この憲法学者なるものであると、読んだ私には知られるのです。だから、著者は正確には「偽中世スコラ哲学者」と書くべきであつた。勿論、偽物に引導を渡すためである。偽物を許容して生かしてくれる業界は、これもいふまでもなく、骨董品の市場です。


結局、このやうな「偽中世スコラ哲学者」の錯誤の最たるものは、かうしてこの本を読みながら考察を進めると、公私の混同でといふことがわかる。私が子供の頃は、こんな幼稚な心性は、子供とかガキとか

呼ばれて、大人たちの間でも軽蔑されてゐたものである。これが政治家や官僚ならば平気で汚職に手を染め、自分の職務の要求する使命も忘れ、従ひ天下国家を忘れ、哲学も形而上学も忘れ、従ひ伝統も歴史も文化も忘れて、自己保身のための嘘と詭弁をつくことになるいふ、今が此の惨状ではないのか、9条どころではない。惨状である。


オーソン・ウエルズの名作『第三の男』の中で主人公の口にする名言に今の日本にぴったりの名言がある。「イタリアは、戦争や虐殺が絶えないボルジア家圧政のわずか30年間でミケランジェロやレオナルドダヴィンチ、そう、ルネサンスを生み出した。しかし、スイスはどうだ。民主主義と平和の500年の慈愛に満ちた歴史は一体何をもたらしたのか。鳩時計だ。」(https://eiga.com/movie/46413/review/02289307/)


このセリフを次のやうに言ひ換へよう。


「日本は、海外で戦争や虐殺が絶えない平和憲法圧政のわずか80年間で大江健三郎や村上春樹、そう、共産主義者を生み出した。しかし、憲法学者はどうだ?「戦後」民主主義と平和憲法による80年の慈愛に満ちた歴史は一体何をもたらしたのか?骨董市で今やただ同然で売られてゐる骨董学者たちだ。」


最後に、この著作の中に三島由紀夫が自決の時に自衛隊に向けて発した長い檄文の引用があるが、その一部はかう書かれてゐる。


「われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。」


ここに三島由紀夫が選択した「助教」は、私が学生のころ助教授と呼ばれてゐた大学の学者の地位にある者の礼儀正しい公けの呼称である。言葉は何語であれ、因果を離れて、コト・タマとして存在してゐるので、この意義(sense)と意味(meaning)の及ぶ影響の範囲は社会に広いものがあると思ふ。かうして、次の問ひを立てて正しく答へることができる。


問:日本の「戦後」民主主義と平和憲法による80年の慈愛に満ちた圧政の「戦後」の歴史は一体何をもたらしたのか?」 

答:左翼・共産主義者の跳梁跋扈する学術の世界に軍隊の身分と地位である助教といふ呼称を受け入れて恥じることのないガキどもである。