2014年4月26日土曜日

【カフカの箴言13】


【カフカの箴言13】


【原文】

Gingst du über eine Ebene, hättest den guten Willen zu gehen und machtest doch Rückschritte, dann wäre es eine verzweifelte Sache; da du aber einen steilen Anhang hinaufkletterst, so steil etwa, wie du selbst von unten gesehen bist, können die Rückschritte auch nur durch die Bodenbeschaffenheit verursacht sein, und du musst nicht verzweifeln.



【和訳】


平地を往くとしようか、そして、往かうという善き意志を持っているとしようか、しかし後退したとしようか、すると、それは絶望的なことになる。が、しかし、急な崖を登るのでああれば、そうである以上、例えばその崖が余りに急であって、下方から見ても君の姿の見えないところに君はいるのだから、後退するということも、ただ地面の状態が原因であるのだと言うことができるのだし、だから絶望するには及ばないのだ。



【解釈と鑑賞】


平地を往くのか、急な崖を登るのかの違いを、後退することとの関係でまとめている文章です。

後者の崖登りが、多分カフカにこの短い箴言を書かせた理由ではないかと推測します。


【ショーペンハウアーの箴言13】


【ショーペンハウアーの箴言13】


【原文】

Allerdings ist das Leben nicht eigentlich da, um genossen zu werden, sondern um überstanden, abgetan zu werden.


【和訳】


しかし、とはいへ、人生はそもそも、享受し、味わわれるためにあるのではなく、堪え忍んで、始末し、片付けるためにあるのだ。


【解釈と鑑賞】


人生とは何かという問いに対して、その目的について書いた箴言ということになるでしょう。

人生を味わい、享受することではなく、人生とは、堪え忍び、片付けるべきものだというのは、しかし、その通りでありませう。


生きることは苦しみだという考えが根底にあるのです。然り、然り。

2014年4月19日土曜日

【カフカの箴言12】独房から独房へ


【カフカの箴言12】


【原文】

Ein erstes Zeichen beginnender Erkenntnis ist der Wunsch zu sterben. Dieses Leben scheint unerträglich, ein anderes unerreichbar. Man schämt sich nicht mehr, sterben zu wollen; man bittet, aus der alten Zelle, die man hasst, in eine neue gebracht zu werden, die man erst hassen lernen wird. Ein Rest von Glauben wirkt dabei mit, während des Transportes werde zufällig der Herr durch den Gang kommen, den Gefangenen ansehen und sage:》Diesen sollt ihr nicht wieder einsperren. Er kommt zu mir.《



【和訳】


認識の始まった最初のしるしは、死にたいという願いである。この人生は堪え難いようにみえる、他の人生は、とても到達できないようにみえる。そうなると、ひとは死にたいと欲することを、もはや恥じないようになる。憎むべき古い独房の牢獄から出て、新しい独房へと運ばれて入れられたいと願い、そうしてくれと言うのだが、その独房をまたぞろ憎むことを学ぶこと必定なのである。その際には、信仰の残りかすが現実的に働くのだ、つまり、そうやって運ばれている間に、偶然に神様がその道にやって来て、この捕われた者を見て、こう言うのだと、そう思うのだ:「この者を、お前達は二度と閉じ込めてはいけない。この者はわたしの所へと来るのだから。」


【解釈と鑑賞】


これも、人間の心理をみたカフカの箴言ということでせう。

独房から独房へと、運ばれながら、同時にその道中には、いつも神様が助けてくれると願っている憐れな人間ということでせう。


しかし、カフカの言葉は暗くはなく、何かいつも、このようなことを言っていても、乾いております。これが、カフカの言葉なのでせう。

【ショーペンハウアーの箴言12】人間、所有、社会、苦悩


【ショーペンハウアーの箴言12】


【原文】

An sich selber so viel zu haben, dass man der Gesellschaft nicht bedarf, ist schon deshalb ein grosses Glück, weil fast alle unsere Leiden der Gesellschaft entspringen.


【和訳】


自分自身でかくも沢山のものを所有していて、その結果、社会を必要としないということがあれば、それは、次の理由によって、既に大きな幸福なのである。何故ならば、我々のほとんどすべての苦悩は、社会から生まれているからである。


【解釈と鑑賞】


これも、この哲学者の人間と所有と社会に関する洞察から生まれた箴言ということが言えませう。

まことに、この通りであると思います。

眼目は、最初の出だしのAn sich selberというところにあります。自分自身でと訳しましたが、自らにおいて社会を必要としないほどのものを所有している者はという意味です。


この場合の自分自身においてとは、精神的な意味も含むことでしょう。もし世俗的な所有を離れた所有をする者がいれば、やはりその者には大いなる幸福があるということになるのではないでせうか。それとも、これは、わたしの偏った考えでありませうか。

2014年4月12日土曜日

【カフカの箴言11】


【カフカの箴言11】


【原文】

Verschiedenheit der Anschauungen, die man etwa von einem Apfel haben kann: die Anschauung des kleinen Junge, der den Hals strecken muss, um noch knapp den Apfel auf der Tischplatte zu sehn, und die Anschauung des Hausherrn, der den Apfel nimmt und frei dem Tischgenossen reicht.



【和訳】

一個の林檎から得られる複数のものの見方の多様性。即ち、小さな若者のものの見方は、なんとかやっとその林檎を食卓のプレートの上にあるのを観るために、首を伸ばさなければならないというものであり、家長のものの見方は、その林檎をとって、自由に、ほしいままに、食卓を同じくする仲間に渡すものだというものの見方である。


【解釈と鑑賞】


これも、一読の通りの箴言です。カフカの観察のスケッチなのでしょう。


若者と家長の対比で、その一個の林檎に対するものの見方の違いを素描しています。

【ショーペンハウアーの箴言11】


【ショーペンハウアーの箴言11】


【原文】

Der Wechsel allein ist das Beständige.


【和訳】


交換、替わり、交替すること、或いは変化ということだけが、変わらぬ、不変のものだ。


【解釈と鑑賞】


ショーペンハウアーという人のものごとの本質を突いた箴言のひとつだと思います。

これは、この通りではないでしょうか、この世界の相というものは。これを仮に実相と呼ぶとすると、実相とは存在しない、無であると、ショーペンハウアーは言っているのです。

この哲学者の主著『意志と表象としての世界』の最後は、Nichtsという言葉、一言で終っております。延々と書いて叙述した宇宙と人間の絵巻の最後、これらすべては無だという結論に、この箴言の由来する思想があると思います。


この一行を味わえば味わうほど、ものごとの本質を実相として又仮相として見ることができる、試金石の箴言です。

2014年4月5日土曜日

【カフカの箴言10】


【カフカの箴言10】


【原文】

Die richtige Erklärung  ist aber die, dass ein grosser Teufel in ihm Platz genommen hat und die Unzahl der kleineren herbeikommt, um dem Grossen zu dienen.



【和訳】

しかし、本当の説明は、大きな悪魔が、彼の中に座を占めたということなのであり、そして、大きな悪魔に仕えるために、数限りないより小さな悪魔が、やって来るのということなのである。


【解釈と鑑賞】


しかし、という言葉が入っていますから、これは、何かその前に、既にあるあることを前提に、この文が綴られていることを示しています。

何があったのでせうか。

これもきっと、日常の瑣細(ささい)なことに、カフカが鋭敏に反応して生まれた一行なのでしょう。


【ショーペンハウアーの箴言10】


【ショーペンハウアーの箴言10】


【原文】

In Deutschland ist die höchste Form der Anerkennung der Neid.


【和訳】


ドイツにあって、認めるということの最高度の形式が、羨望なのである。


【解釈と鑑賞】


社会的な機会で、対象となる人物の素晴らしさをいうときには、Neid、羨望、neidisch、うらやましいなあという言葉を使って、そのことを言うことになるのでしょう。

誠に羨ましい限りであります。と、いったのでしょう。

その賛辞の呈し方に、ショーペンンハウアーは疑問を呈しているわけです。

これを、日本にと置き替えても、面白いかも知れません。


その根底にあるのは、嫉妬心でありませう。