2012年10月28日日曜日

古代ローマの筆記用具(蝋板)とiPadの類似性



古代ローマの筆記用具(蝋板)とiPadの類似性



テルマエ•ロマエの漫画で有名なヤマザキマリさんのテルマエ戦記という、テルマエ•ロマエが当たってから押し寄せて来た現実と戦う奮闘記を読んでいたら、そこに古代ローマの筆記用具が出て来ました。

写真をみると、全くiPadと変わらない。何か、ペンタッチ付きのiPadというようなものです。

やはり、古代ローマ人も携帯に便利で、思ったことを備忘として記録する道具を必要としていたのでしょう。

まさか、電気というものが発見されて、それを国家が社会基盤を整備して、だれでもどこにいてもこの蝋板が使えるようになっている時代が来るとは、ローマ人は想像だにできなかったこでしょうけれども。

2012年10月22日月曜日

埴谷雄高論6:死霊の文体について

埴谷雄高論6:死霊の文体について

今手元にその資料がなく、一体何で読んだのかも記憶にないのであるが、中村真一郎が埴谷宅を訪れて、その書架に緑の背表紙のジャン・パウル全集をみて、あっ、埴谷雄高はジャン・パウルなのだと直観したことの書いてある文章を読んだことがあります。

この中村真一郎の直観は正しいとわたしも思っています。

死霊を読んでいて、その時間の無さ、物語の進行しないそのしなさは、ジャン・パウルの文体と同じであり、このような文体の根底にある精神は、ジャン・パウルに一脈通じているのだと思います。

それは、時間を捨象して、空間的な世界を造形したいという願望です。

これに加えて、もうひとつ、埴谷雄高は意識しなかったと思いますし、誰もこのことを言っておりませんが、その願いと併せて実現したそのネスト構造(入れ籠構造)の息の長い文体は、国や言語を超えて、明らかに埴谷雄高がバロック様式の作家であることを示しています。

バロック様式とは、17世紀のヨーロッパ、ドイツが諸国に蹂躙された30年戦争の起きた時代の様式で、その時代からいっても、人間が今日在ることが明日は無いかもしれない、自分は今日生きているが明日は死ぬ事があると考えたことから生まれた様式です。

その文章上の様式、即ち文体においては、ネスト構造(入れ籠構造)の重畳の息の長い文体でありました。そうして、もうひとつの特徴は、グロテスクであることを厭わないということです。

安部公房を発見した埴谷雄高は、自分と同じ主題を探究する若い作家を発見したということの他に、やはり、上に述べた死生観から言って、ともに自分自身を未分化の状態におくという、そのような物と考え方と態度に共感を覚えた筈です。

埴谷雄高には、重畳な文体が、他方、安部公房には、グロテスクネスが、日本語の世界に生まれたということになるでしょう。

安部公房とバロック様式については、次のURLアドレスへ。

http://abekobosplace.blogspot.jp/2012/10/blog-post_22.html




2012年10月19日金曜日

わたしの読解の方法

わたしの読解の方法

わたしのテキストを読む方法は、ただただ虚心坦懐にテキストを、文字を読むということである。

そうして、そこに作者のものの考え方や、その人がどういう人間なのかを読みとる。

それは、とても大切なことである。

安部ヨリミの「スフィンクスは笑う」のテキストを読んで、そこにあったものを発見し、同じ小説をほかの幾人ものものひとたちが四ているのに、全く気が付かない発見であったことを不思議に思っているうちに、やはり再び上のことを思うのである。

眼の前に宝石がぶら下がっているのに、人間という奴はそれが目に入らないのだ。

それ以外のほかのことにばかり目が行ってしまう。

それは、自分のことばかり考えるからだ。自分のことしか考えないから、眼の前の輝く宝石が目に入らずに、それ以外の表層的な、どうでもよいものごとばかりに気がとられるのである。

自分の言葉をどこから発するか、作者の言葉をどれ位深く理解するのか、これらのことは深く関係していて、結局、読者であるわたしがわたし自身を知るという恩恵をこうむるのである。

これが読書の醍醐味、テキストを読む醍醐味だと、わたしは思う。

2012年10月12日金曜日

その人の分(ぶ)について

その人の分(ぶ)について


その人が決して狂うことなく居られる領域のことを領分といい、その人の分というのだ。

2012年10月11日木曜日

猿は金なり:monkey is money.

猿は金なり:monkey is money.

Money is monkey, Monkey is money.

Time  is moneyとはよく言われることだが、わたしの場合は何故か、monkey is moneyなのである。

何故か、いつもmoneyという文字をみるとmonkeyと読んでしまうのだ。そうして、文章の意味がとてつもなく非現実的な、奇妙奇天烈な文脈に迷い込むことになって、しばらくしてから錯視であることに気づく。ああ、猿ではなくお金のことなのだ、と。

猿は金なり。

しかし、これは案外に深淵な真理かも知れない。

何しろ、簡単には捕まらない、人間の好き勝手にはならない、それは丁度人間自身の姿のようであり、しかも、愚かな劣った人間の譬喩(ひゆ)としても秀逸だ、それに猿知恵というように、猿だと思って馬鹿にしていると却(かえ)って人間より悪知恵も働くかも知れない。お金も生き物である。

猿がお金だと思うことは、何か滑稽を伴う感情を喚起する。猿がお金だ、お金が猿だと思うと、お金に対して何かこうがっかりする感じ、幻滅の感じもあるのではないだろうか。

時間はお金であるという西洋、白人種の、確かこれはアメリカの建国の草創期のベンジャミン・フランクリンの言葉でありましたが、あくせくするその箴言よりも、猿はお金であるという方が何か東洋的な、支那の国の朝三暮四という逸話を思い出したりして、お金が人間の欲望の反照として、なかなかしみじみと味わい深いものを感じます。

一体moneyの間にあるkとは何なのだろうか?

多分、人間の欲望なのだろう。人間の欲望定数。



文法書を読むということ

文法書を読むということ



ドイツ語の文法書を読むのが好きだ。これを読むと頭の中が整理整頓されて、実にすっきりする。

英語の文法書もよし、それからサンスクリット語の文法書もよし。

結局、文法書を読むことで何を想い出すかというと、思考とは規則の集合だという平々凡々たる事実を想い出すのであり、このことがわたしのこころに安らぎをあたええてくれるのだ。


2012年10月10日水曜日

どうしても記憶することができない難しい外国人の名前

日常仕事で接しているにもかかわらず、どうしても記憶することができない難しい外国人の名前(姓名の姓)に次のような名前があります。

Filizfidanoglu
Moczijdlower
Fridtjof

それぞれドイツに住み、ポルトガルに住んでいる人たちですが、出自は多分それらの国の外にあるものと思われます。

こうしてみると、わたしの記憶できない理由は、やはり、子音+母音という組み合わせの音ばかりでできているのではなく、子音が連続的に続いていて発音がしにくく、それ故に記憶に残らないのだろうということです。


あたなにとってのこのような名前には、どのような名前があるでしょうか。



2012年10月8日月曜日

椎名麟三を読んで思うこと


椎名麟三の短編集を読んでいる。

実にどれも面白い。少しも古くない。安部公房が椎名麟三という人間を好いた理由もわかるように思う。

そうして、この共産党員であったことのある椎名麟三の小説を読んで思う事は、大東亜戦争の経験から、結局戦後の共産主義者を始めとする左翼は、同じ間違いを犯したということである。

それは、命令に絶対的に従うことが、実にその人間を陶酔させるという、この人間の弱点ともいうべき性格(性格?この言葉の選択は正しいか?吟味の要あり)であるということだ。

人間は確かに、その組織とともに、一方の極から他方の極に、振り子のように触れるものである。これは、如何ともし難い、抗い難い運動である。

大事なことは、その運動の外に居るということである。

そこが文学の世界だと、わたしは思う。それは、一言でいうと、苦しみに負けてはならないということである。苦しみの代償に他のものを求めてはならないということである。

それ故に、わたしは、愚かな日本国民よ、愚かな日本人よということができるのだ。勿論、わたし自身を含めてであるが。

東京の下町を歩く



東京の下町を歩く













2012年10月6日(土曜日)に、旧友二人と上野駅の公園口出て直ぐ左にある小さなテラスのカフェで待ち合わせて、東京の下町をのんびりと散策するということをした。

かねて楽しみにしていた計画である。

そのカフェで待ち合わせるのは、勿論そこで、待っている間に、ビアが飲めるからです。

さて、ゆっくりと上野恩賜公園を通って、中にあるMカフェを更に通って、下町を散歩しました。

上野公園では、民謡と踊りの環ができていて、その踊りの輪に黒い人も白い人も混じって、楽しそうに踊っておりました。民謡の楽の音を聴くと、自分が日本人であること、そうしてそのゆったりとした旋律に身を浸していると、日本人に生まれてよかったという思いが致します。この写真を上梓します。

さて、その次に、やはり、これは、上野音楽学校の先生と生徒の奏する古式豊かな雅楽が、街中の小さな空間、今は記念館となった酒屋の前から聞こえて来ました。甘酒をすすりながらしばし聴いたことでした。横笛、笙、小さな縦笛(正しい名前があることと思います)の奏楽です。この写真を上梓します。古代のままの衣装を身につけて、演奏していました。

そのあとは、岡埜栄泉という和菓子屋さんで、豆大福を買いました。この大福は、わたしが30歳のときに広尾辺りの支店で買って、初めて口にして、余りの美味さに驚いた大福です。それ以来ずっと記憶に残り、こころに残っていた大福の本店がここにあるとは知りませんでした。やはり、美味い大福で、誠に幸せ、満足の歩行、道行きです。

更に歩くと、谷中の墓地を通ります。その塀から余って覆い被さるような、これは柑橘類の木がありました。その写真を上梓します。

同じ道筋に、オッペケペー節の川上音二郎の、今は銅像は戦時中の供出にて無くなったものの、その台座だけがあり、その写真を上梓します。

この歌詞を読むと、今でも全然古びていないことに驚きます。むしろ、このような節廻しと風刺の歌詞は、牧伸二で終わり、その後の後続がないのではないかと思います。この流れの復活を願いたい。

段々と谷中の商店街、谷中銀座に近づきますが、その少し手前で、築地塀の古い家がありましたので、ご覧下さい。これぞ、江戸という感じがします。

さて、谷中銀座の手前で、広場あり、そこで休日とて御祭りのことあり、太鼓の一座が太鼓をならしている、それを眺める、次の出番待ちのフラダンスの女性達の写真です。おでんという旗のそばで出番を待つというのが、何ともいいものです。こんな光景はハワイにはないことでしょう。

谷中銀座に入り、有名なメンチカツ屋さんでメンチカツを買い、その隣りにある酒屋でワンカップの樽酒菊正宗を手にして、酒屋の隣りの場所に、一升瓶の通い箱を逆さにして並べてある椅子に座って、往来を眺めながら、メンチを肴にやりながら酒を昼間から飲むという、非常に贅沢なる時間を過ごしました。極上の時間です。

午後の4時になったとて、日暮里駅ビルのさくら水産にしけこみ、まだ少し日の明るいうちから、次の酒を飲む仕儀とは相成りました。写真は、さくら水産に入る前の跨線橋からみたスカイツリーです。

跨線橋から眺めて、線路を写しましたが、向かって左が山の手、右が下町という、その分かれ目が、この写真です。

いと疾く時は過ぎ去り終わりぬ。

充実の時なりけり。


法律の外に棲む子供について



法律の外に棲む子供について

わたしの好きな人間達は、どういうわけか皆、法律の外にいる子供である。以下に挙げてみよう。

1。寒山拾得
2。地下鉄サム

実は、これらの人間は、後でその絵画なり、小説なりを読んでみると、子供ではなく、大人であり、地下鉄サムなどは、どうも二十代後半から三十代前半の年齢に見える。

しかし、尚、これらの人間達は、わたしのこころの中では、法律の外にいる子供の姿として鮮明に記憶され、日々わたしと共に生きているのを感じる。更に、日本語でいうならば、

3。童子、yy童子
4。xx丸

と呼ばれる子供達も、わたしの深い友人である。

椎名麟三の「神の道化師」はよかった。まさしく、法律の外に生きる子供を生々しく描いている。

2012年10月6日土曜日

埴谷雄高論5(三輪與志の「自同律の考究」)


埴谷雄高論5(三輪與志の「自同律の考究」)

死霊の中で、三輪與志は「自同律の考究」という論文を書いている。

その内容を構成する具体的な、論文の中の文を今、思うままに作中から拾って来て、後日の備忘としたい。この論文の中身を復元するためである。

わたしの手元においている本は、「埴谷雄高全集3」(講談社)である。

1。第1章 癲狂院にて
(32ページ):黒川健吉との対話

ーーー三輪が論文を書きはじめていると矢場が云っていた ……。
ーーー書いている『自同律の考究』という表題だ。

ぽつりと不快そうに三輪與志は答えた。その三輪與志の肩へ殆ど触れるほど近く、黒川健吉は寄り沿ってき

ーーー存在は不快を噛みしめなければならないのだろうか、三輪。
ーーーそう。そうかも知れない。…… 俺は不快だと云っているだけだ、先刻から ……。

(55ページ):岸博士との対話
ーーーふむ、貴方も自己意識の延長外に出てみたい一人なのでしょうか。それが、それほど魅力的な課題ですかしら。ですが、…… 私は精神病医として敢えて断言しますが、自己が自己の幅の上へ重なっている以外に、人間の在り方はないのです。
ーーーそれは、不快です。
と、三輪與志はぽつりと云った。
ーーー不快 ……。私はひょっと想い出したのですが、…… 間違ったら失礼 …… 自同律に関する論文を、貴方は書かれなかったしょうかね。もうかなり前で ……そう、社会的な運動が盛んな頃で、誰も注意しなかったようでしたが、私はかなりはっきり記憶しています。

(ここからあと、58ページまで、岸博士と三輪與志の対話が続き、虚体を論ずる。)

2。第9章 <<虚体>>論ー大宇宙の夢
(851ページ)
ここに岸博士の理解する虚体論が展開されている。このページ以降、話者を変えながら虚体論が続く。

(852ページ)岸博士の言葉
(略)一昨日の夜につづいて、昨夜もまた私は古い雑誌を書棚の奥から取り出して、三輪君の『自同律の考究』を繰り返し読んでみました。そして、そのとき、これまで思いいたらぬ深さで特に昨夜私の気をひいた三輪君の章句は、僅かに短いつぎのような言葉でした。

 存在が思惟するときのひそやかな囁きを聞こう。それはそこに自身を見出だし得ない呻きではないのか。


(866ページ):津田安寿子の質問に対する黒服の男の回答
(略)お嬢さん、御存じでしょうか。與志君の『自同律の考究』の記述のなかの詩の一つは、こういうものです。
  <<自己疎外>>。墓地の木魂のごとく気味悪く去りやらぬその影よ。

(この稿続く)


2012年9月17日月曜日

自同律の不快にコメントを下さった方へ

自同律の不快にコメントを下さった方へ

申し訳ありません。ふたつのコメントを公開しようとして、ブログの管理画面で操作をしたのですが、何か間違えて、公開と逆の操作をしてしまい、削除してしまったのではないかと思います。

管理画面にて確認をすると、貴兄のコメントが数字として載って参りません。

貴兄のコメントは重要ですので、再度、お手数ながら、コメントを戴ければと思います。

申し訳ない。

よろしくお願い致します。

安部公房の窓




安部公房の窓

安部公房は、10代のころから、窓というものに特別の注意を払っておりました。

今、ざっとわたしの記憶にある、安部公房の窓の出てくる資料を挙げると次のようになります。

1。中埜肇宛書簡(第4信)の窓氏(1943年)
2。「詩と詩人(意識と無意識)」の窓(1944年)
3。「君が窓辺に」という詩の窓(1944年)
4。「第一の手紙~第四の手紙」の窓(1947年)
5。「箱男」の窓(1973年)
6。「カンガルー•ノート」の窓(1991年)

これ以外にも、もっとたくさんの安部公房の窓があると思います。ご存じの方は、ご教示下さい。

さて、最初の中埜肇宛書簡(第4信)の窓については、次のように書かれています。


ニーチェは僕の目に益々偉大に、物苦しくうつつて来ます。
没落は、実は今の所ある非常に大きな暗礁にさしかかって居るのではないでせうか。十九世紀の歴史的意義は果たして何だつたでせうか。……新しい登場人物。別離と窓氏。

中埜君、どうかニーチェが気が狂ったと云う事と、最後迄ワーグナーの悪口を云ふのを忘れなかつた……あきなかつたと云う事に御注意下さい。人間はあの悲しい反照なくしては自己証認すら足場をなくするのです。……僕がふと見上げる時、人々はつめたく窓をとざす。「これは君の趣味ではないのかね」


とある通りを読むと、ニーチェの名前があるように、そうしてニーチェの創造した主人公、ツァラツストラがそうであるのように、概念の山の戴きから下界の詳細な現実へと下降して来る、その意識のもとに書いた「問題下降に依る肯定の批判」(1942年)で書いたことを意識して、10代の安部公房は、この手紙を書いたのだと思います。

没落の生活をする中で、どうも窓は、他者との通路のようです。また、この当時の安部公房は、窓ということと別離を一緒に考えていたということがわかります。

「詩と詩人(意識と無意識」(1944年)の中に次の文章がありますので、引用します。この作品は2部構成になっていて、第1章が「1。真理とは?」、第2章が「世界内在」と題されていて、考察が書かれています。窓が出て来るのは、この第2章です。少し長い引用となります。


 自己の内面に心をはせて、あの心の部屋と自分に全く無関心な外界との分裂に気付く人は、その間を隔てている永遠の窓を幾度も押し開けようと試みる。けれど何時でも、その窓を押し開けようとして差しのべられた手は力無く、実体を伴わぬ幻影のように侘しく目的を放棄して終わらねばならない。その窓は永遠にと閉ざされているのだ。

 しかし、その分裂の悩みの裡に憧れたその窓の外には、果たして今吾等が見ているが儘の姿が現存するのであろうか。果たして此の窓ガラスは透明に外界の形象をありの儘に我等の孤独の部屋の中に送り込んで来るのであろうか。若しかして此の色とりどりの外界は単に窓ガラスに巧みに画き出されて行く幻ではないのか。それとも此の窓は吾等の心の反照たる鏡なのではなかろうか。

(省略)

 此の窓が、これも亦やはり人間の在り方であると言う事は誰しも認める事だろう。それならば、その窓を通して(と思われる)見えるあの外界の形象も亦、その窓に属するものと考えなければいけないのではないだろうか。と言うのは、その外界は実存すると否とに不拘、既に窓を通して見たと云う特殊の制約を性格として附加されていて、しかも其の窓は人間の在り方と云う体験的解釈である以上、その外界は明かに吾等の体験的解釈を通じてのぞき見たものに他ならないのである。それ故にこそ外界は、<<かく見ゆる>>のである。


この窓は、安部公房の一生を通じて、大切なモチーフ(動機)のひとつとなっています。

安部公房は、カメラがとても好きで、写真をたくさん撮っています。安部公房にとってのカメラ、写真撮影という行為の意義は、この10代に思考して得たこの窓に、その淵源があるのだと、わたしは思います。

そうして、それは、上の引用にもありますが「のぞき見」るという行為は、カメラを通じて行われる、犯罪的な、一種の共犯者としての感情に通じていると思います。

箱男の段ボールの窓を思って下されば、それはひどく自明のことのように思われることでしょう。

そうして、安部公房の撮影する写真が、共同体の内側ではなく、その外側にある塵捨ての場所であったり、また建物の間にある、薄汚れたような、薄暗い、また人の知らぬ隙間の空間、いってみれば、空間と空間の接続部分であるということが、深い意味を持っていると思います。

「第一の手紙~第四の手紙」では、語り手である主人公に仮面と手袋を置いて去った人物が窓辺にいたところで、その人物に仮面と手袋を渡す(その前の)人間が姿を表すのです。

勿論、その仮面とは、後年の他人の顔の仮面であり、顔そのものでありますし、手袋とは、安部公房が「手について」というエッセイで後年書き、また安部公房スタジオの役者達に伝えた、存在の手、neutralな、人間の誕生以前の手なのです。(この手については、散文楽の「安部公房の手3」に書きましたので、お読み戴ければと思います:http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_15.html

「君が窓辺に」という詩の窓は、次のように歌われています。詩の全体を引用します。


光より 光の方へ想ひ流れて
静かなる胸の動きを 君が窓辺に聴き給へ
我が立つ声 嘆きも忘れ
黙すかの如く 君が窓辺に

石の如(ごと) 面をふせ ひそかに偲びて
麗しの陰影は君が姿を居かこみぬ
語るも忘れ もだしためらひ
なげくが如く 君が窓辺に

歩み給へ別離こそ まことの愛ぞ
涙の始め 笑ひの始め
ほのかなる 天使の姿
吾れなえはてし 君が窓辺に

一人して うまし木の実を
なさけだに おとししものを
一人居の天使 吾れに許さじ
涙せし如く 君が窓辺に……


これは、一人称(わたし)の窓辺ではありませんが、わたしと君との間に窓があります。

「詩と詩人(意識と無意識」の窓の文章を読むと、この窓が二人称である君を理解する、君を反照する窓であるのでしょう。そうして、一人称であるわたしもまた窓を持っている。

最後に「カンガルー•ノート」の窓を、その小説の最後からひいいてみたいと思います。もう、ここはほとんど「箱男」の世界と同じ情景です。


 箱が窓の下に据えられ、ランニング•シャツの一群が、ぼくを窓から引き下ろそうとする。(省略)

北向きの小窓の下で
橋のふもとで
峠の下で

その後
遅れてやってきた人さらい
会えなかった人さらい
わたしが愛した人さらい

   遅れてやってきた人さらい
   会えなかった人さらい
   わたしが愛した人さらい

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)


この晩年の詩には、10代の安部公房には願っても得られなかった軽味、ユーモアがあります。

そうして、窓といい(それも北という方向を向いている)、橋といい、また峠といい、いづれも接続する場所だということが、共通していることで、安部公房のセンス(感覚)、生きているという感覚と、生き生きとしてイメージは、これらの接続する場所から生まれて来たのだということがわかります。

これは、10代の散文「問題下降に依る肯定の批判」では「遊歩道」といい、「第一の手紙~第四の手紙」では「歩道」といった場所、通路と全く同じものを意味しています。

このような安部公房の思想を一言でいうと、それは、

物事の本質或は意味は、関係にあり、従い、普通ひとが二義的だと思っている領域に、それは存在する

という思想です。

これが、そのまま晩年のクレオール論(言語機能論)の骨格であり、また、アメリカ論の骨格であった筈です。

これらの論文を是非読みたかったと思うのは、わたしひとりではないと思います。


  

2012年9月15日土曜日

安部公房の手3



安部公房の手3


安部公房全集の中にある「手について」という題のエッセイは、極く短いものでした。

やはり、高いけれども、安部公房が本格的に演技論として論じた手については、「手について」という同じ題の1万円の本を買う以外には無いようです。

さて、今このエッセイを読みますと、やはり安部公房は手というものを「むしろ沈黙の領域に属するもの」だといい、「ものとの関係で初めて雄弁なので」あり、それは「主体の飾りもの」ではなく、それは人間関係の内外にある「見えない物や、見える物が、複雑にからみあいながら埋めている」その「沈黙の領域」を、眼や口とともに、示してくれるものだと書いています。

また、「手は、眼や口のような、直接的な伝達の器官ではない。」と書いていますので、手は間接的な伝達の器官ということになります。

このような文意を読んで来て思う事は、安部公房の思考の中心にある次の思想です。それは、

物事の本質或は意味は、関係にあり、従い、普通ひとが二義的だと思っている領域に、それは存在する

という思想です。

これは、そのまま安部公房の言語論、あるいはクレオール論の核心でもあるでしょう。それから、とうとう書かれることのなかったアメリカ論の。

同じこの思想を、「第1の手紙~第4の手紙」(1947年。全集第1巻)では「歩道」と呼び、10代の散文「問題下降に依る肯定の批判」(1942年。全集第1巻)の中では「遊歩道」と呼んでいるものに同じです。

言語論としての安部公房の言語論は、上のことからも明らかであるように、言語機能論です。

安部公房の言語論については、また稿を改めて論じたいと思います。

2012年9月11日火曜日

埴谷雄高論4(自同律の不快と虚体)


埴谷雄高論4(自同律の不快と虚体)


自同律とは、わたしはわたしであるということを知っているのに、そうして、わたしがわたしであるのに、わたしがわたしではない形でしか、わたしのことを言わなければならないということ、必ずそのようなことになることを言っている。自同律の不快とは、それが不快なことだといっている。

即ち、主語があるので、述語部では、主語以外の言葉を持って来て、主語を置き換えなければならないという、この律ともいうべき、規則のことを言っている。そうして、またそれにも拘わらず、わたしはわたしであるということ、それを律という厳格な規則として、律と言っている。

このことが不快である。何故ならば、わたしはわたしであるということを知っているのにも拘わらず、わたしはわたしであるということが出来ないからである。

(この不快という感情は、若さの故の感情だと、わたしは思うが、しかし、それ故に人を惹きつける。だれでも、このことで苦しんでいるのだ。)

このことが不快である。何故ならば、わたしは、わたし以外の何者かにならなければ、わたしはわたしであるという同義語反復の、自同律の罠に陥ってしまうからである。

人間が、このように、いわば述語的な存在であることに反旗を翻して、存在に挑戦する三輪与志は、重要な主人公なのだと思います。

その挑戦の果てにある、三輪与志の理想の姿が、虚体です。

これは、自然のあらゆる法則を逃れ、逸脱している、一人称のわたしの姿です。








2012年9月5日水曜日

安部公房の読書会


安部公房の読書会があるとて、わたくしは、この週末遠く京都まで行くのである。

作品は、他人の顔。

安部公房全集全30巻が出ていて、そのうちの第1巻は、安部公房のエッセンスが凝縮している。安部公房が横溢している。

この巻は、10代から24歳までの作品を、詩文と散文と両方が収まっています。

この巻を読むと、その後の安部公房の成長、変貌も、根底からよく分かります。

そうして、生涯、安部公房が不変であったことも。

しかし、よく自分の頭で考え抜いたなあという思い、頻りです。

褒むべきかな、安部公房。

人生にとって、一番大切な事は、そのことだけ、自分の頭と言葉で考え抜くことだと言ってよいと思う。

あの人がああいった、このひとがこういったなどという引用話は聴きたくない。あっちの権威、こっちの権威におべっかを使う、世のディレッタントどもよ、お前達は、もう消え失せろ!と、そういいたい気持ちです。

もう、そのように言ってもよい歳になったことに感謝しております。

そのような人間の文章は、最初の一行でわかるので、もうその文章を離れて、二度と読む事はありません。

もう、このように出来るよい歳になったことに感謝しております。

わたしは、あなたが何をどう感じ、考えたか、それだけが知りたいのだ。



ひとは何故言葉で書き留めるのか?




ひとは何故言葉で書き留めるのか?


わたしたちは、日常で膨大な言葉を消費し、また流通させている。そうして、膨大な量の言葉、言葉使い、言ったことごとを即座に忘れる。言った片端から忘れる。読んだ片端から忘れる。聞いた片端から忘れる。

他方、文学という世界があり、そこには古典があって、繰り返し読まれている。

ふと、今気がついたのだが、学ぼうというこころのあるときのみ、ひとは言葉を大切にとっておくのではないだろうか。後日の再読や、参照のために。読み返すために。そうして、それが記憶の中であれ、備忘として文字で書き留めるのであれ、その形態を問わずに。

それでは、書くということ、文字で何かを書くという行為は、学ぶこころに発したものだろうか?と、こう考えてみる。

そうすると、その答えは、やはり、そうだ、文字で何かを書くということは、学ぶということなのだ。そうして、何かを知るということなのだ。それは、忘れまいという意志であり、思い出すという行為である。それが、詩文であれ、散文であれ。

こうして書いていて、わたしは、そうして、わたしが、そのことを知るのである。


2012年9月4日火曜日

安部公房ともぐらについて 2



安部公房ともぐらについて 2


安部公房全集第1巻に「<僕は今こうやって>」と題した、見開き2ページの文章があります。

そこにこう書いてあります。


僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云う事はもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。


この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」とは、なにかこう、いかにも土を掘るような感じを与えます。

この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」のことを、後年、安部公房は「消しゴムで書く」と言っています。

もぐらのように外面をえぐり取るということはどういうことかといいますと、目の前にある物事を形象、イメージに転化して、そのイメージを言葉で表すということ、この仕事のことを言っています。

これが、安部公房のいう「詩以前の事」を語ることなのであり、その形式が、手記という形式なのです。(安部公房にとっての詩と小説の関係について:http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_28.html)


従い、譬喩(ひゆ)でいうならば、安部公房の書いた手記形式の小説とは、みな、もぐらの手記なのです。

遺稿の中に「もぐら日記」という日記があって、その日記にもぐらを冠した安部公房の感覚は、わたしには、よくわかります。

わたしも多分、もぐらの中の一匹なのでしょう。

いや、安部公房の愛読者である、あなたもまた。





安部公房ともぐらについて


安部公房ともぐらについて


普通ひとは、咲いた花しかみない。咲いた花をみて愛で、嘆賞するものです。

しかし、安部公房というひと、あるいはその読者、もっと云えばそその愛読者であるひとは、花などよりも、その花の生まれる土壌とその土の中にある根っこがどうなっているのかということの方に興味のある人間なのだと思います。

種を土の中に播(ま)き、播いた種がどのように発芽するのか、そうして発芽して、それが地上を目指して伸びて行くのか、そのことに興味がある。

これは、まあ、人間がもぐらになってようなものです。あるいは、もぐら人間です。

安部公房の亡くなった後、遺稿のひとつに「もぐら日記」と題された日記があったとのことですが、日記をそう命名した安部公房の心中は、上のようなものではなかったかと想像します。

土の中に穴を掘って、その穴の中で生活する。

このような人間の、日本語の世界での割合と遠い先達は、吉田兼好だと、わたしは思っています。

花は盛りを、月は隈(くま)なきものを見るものかは

富士山や桜の花の嫌いだった安部公房の言葉と発想に実によく似ているではありませんか。






2012年9月2日日曜日

安部公房にとっての詩と小説の関係3:マルテの手記


安部公房にとっての詩と小説の関係3:マルテの手記


安部公房全集第1巻に「<僕は今こうやって>」と題した、見開き2ページの文章があります。

そこにこう書いてあります。


僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云う事はもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。


「第1の手紙~第4の手紙」という作品で、手記を書く事は「詩以前の事」を書く事だと言った安部公房は、やはりマルテにならって、そうしてその手記という形式を全く安部公房流に消化し、換骨奪胎して変形させ、「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記」としたのです。

この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」のことを、後年、安部公房は「消しゴムで書く」と言っています。

そうして安部公房は、その消しゴムを以て、顔を書き、手を書き、壷を書いたのだと思います。

その手記はみな、外面と内面の果てしのない交換のことについての手記でありました。

これが、安部公房の小説の根本にあることだと、わたしは思います。

これが一体どのようなことなのかは、安部公房全集第1巻の「詩と詩人」に詳しく論ぜられております。次のURLで、安部公房のこの10代の散文を詳しく読み解きましたので、お読み戴ければと思います。

http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/07/1920.html


安部公房の顔


安部公房の顔


安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品があります。これは、1947年の作品。安部公房24歳。

第1の手紙は、詩と「詩以前の事」について、
第2の手紙は、歩道について[これは既に「問題の下降に依る肯定の批判」(1942年)という10代のエッセイでは、遊歩道としてっ出て来たものと同じイメージのものです。]
第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]

と、このように、第3と第4の手紙に、顔が出て来ます。

ここに書かれている顔について、理解したところを書きたいと思います。

何故顔と手が主題となるのかということですが、これが実に安部公房らしいのは、顔には人相見があり、手には手相見があって、その人間の人生を過去、現在、未来とみることのできる対象となっているから、その主題となっているのだと思います。

そうして、安部公房の顔も手も、ところが全くその期待(時間の中人間の人生を読むということ)を裏切って、時間というものを考慮に入れることなく、むしろそれを捨象して、時間のない存在として、描かれているのです。

手については、確かにそうでした。それでは、顔についてはどうでしょうか。

安部公房全集の第1巻に「没我の地平」と題された詩集の「光と影」という次の詩があります。その第1連をひきます。


お前の手より名を奪え
お前の胸より名を奪え
夜の標(しるべ)は無名の主我
大地も落ちる無名の星
目覚めに夢む四季の調べを
汝が顔(かんばせ)に読み取るな


この詩に歌われている通りに、散文の世界でも、安部公房は手から名前を奪い、手のあることを「詩以前の事」となし、顔についても同様に、これを「詩以前の事」となして、「四季の調べ」という時間の流れを捨象して、「汝が顔に読み取るな」としたのです。

そのような存在の顔のことを、安部公房は第3の手紙で「運命の顔」と呼んでいます。

この「運命の顔」について、主人公またはこの手紙の語り手に話をする「必ず後ろで絶えず囁き続ける誰か」が登場するときには、必ず語り手は窓辺にいるということが、重要です。

第3の手紙では、窓についてこうかかれています。


窓、それもめったに存在さえ気付かれない、或る精神の媒介、それを透かして呼吸した夜は自分の内部に在って而も自分の名前に属さない部分だ。万物の中で振動している量子の触感だ。その中では、人間である事の宿命的な忘却が、幻覚と云う名前で捨て去って了った、或る実体がよみがえった来る。


これが安部公房の窓です。当時の書簡を読むと、安部公房は友人達と、この窓について議論をしていたことがわかります。


さて、語り手がそのような窓辺にいるときに「運命の顔」について影の男が語ります。

この男の顔、その「運命の顔」を最初みた影の男は、次のようにその顔のことを言っています。


ひょっと其の男の顔を見上げると、これは又どうした事だろう。正に奇怪至極、想像を絶したものに変じていた。でっぱる所が窪み、窪む可き所が飛び出した、まるで裏返しにした様な顔なのだ。一寸能面を裏側から見た様な感じだった。たちまち測り知れぬ恐怖が毛を逆出たせ、鳥肌にして、暗黒の奈落へつき落とされる様な目まいを感じた。


この顔は、一旦顔に装着すると取る事ができなくなり、顔に密着して自分の顔と同じ顔になる顔です。鏡でみると、それ以前の顔となんら外見上は変わらない。

(話は飛ぶようですが、埴谷雄高ならば、このことを自同律と呼び、それは不快だといい切ったことでしょう。)


その顔のもたらした世界のことを第4の手紙では、次のように書いています。


それは即ち、内部と外部とが入れ替わった様な世界だった。(途中略)、云い代えれば呼吸の様な、心臓の鼓動の様な世界だった。そして動くもの、変化するもの、吾々がその中で生活を営む可き環境だとか運命だとか云うものは、その逆に内部から発し、未知なものとして、今迄は外部と呼んでいた、新しい内部に浸み出して行くのだと云う事を知ったのだ。つまり、私の顔は裏返しになっていた。

(途中略)唯、私は一つの行為に身を沈める丈だった。それは停止した時間の中で、各瞬間を想像して行く事だった。云い代えれば、観察し、名付け、愛する主体である存在そのものに身をひそめ潜入する、行為若しくは在り方を全うする努力と意志とでも言えはしまいか。

(途中略)

こうして私の、失われた生活、失われた運命、失われた郷愁、そして長い間忘れてい、これから後何時使われるか分からぬ鋳型の様な、潜入の刹那が始まった訳なのだ。


この文章は、そのまま後年の「他人の顔」という小説の、主人公の意志と意識の説明になっている。


安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学


安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学


安部公房の詩集の題名は「無名詩集」という。


前回書いたように、安部公房の小説はすべて「詩以前の事」を書いたものである。特に手記の形式の小説では、そのことがはっきりと出ていると思う。

さて、そうだとして、またそうであれば、安部公房の小説の主人公はみな、無名の人、無名子であるということができる。

そして、主人公は無知の人間として描かれている。

これは、そのまま愚者の文学と呼んでよい領域の文学のひとつが、安部公房の文学だといってもよいと、わたしは思う。

無知な人間ということは、世間的に見れば、役立たず、無能な人間ということであり、馬鹿者、阿呆者ということである。

イワンの馬鹿(ロシア)や、阿呆物語(ドイツ)等々、他にも色々と世界中に、多分民話のような形であるのではないだろうか。

また、無知な人間ということから、そのような人間は成長して行くわけであるから、安部公房の小説は、無知な主人公の成長を描いた一種のBildingsroman、ビルデゥングス•ロマーン(教養小説)と見る事もできると思う。哲学的な、人間の意識の成長と変化、変貌を描いた相当抽象的で、その意味では相当変わったビルデゥングス•ロマーンではあるけれども。

こう書いて来て、このように考えるのであれば、トーマス•マンの魔の山も愚者の文学だということに気がついた。主人公は、なんということのない平凡な名前ハンスという名前の主人公である。

2012年8月30日木曜日

安部公房の手 2


安部公房の手 2



安部公房全集第1巻に「第1の手紙~第4の手紙」という作品(1947年。安部公房24歳)にある手について、引き続き知ったことを書いてみたい。


第3の手紙に書かれた手、手袋をした手は、その手袋を持参した男の言葉によれば、のっぺりしているばかりではなく、また「若し手相見が見たら何と思うでしょうね。過去にも未来にも全く運命を持たないて……人相観なら定めし腰を抜かして了うでしょうよ。」といわれる手です。

のっぺりといい、またこの時間の無い手、時間を捨象した手ということからいっても、これは何か存在(das Sein)という以外にはない何ものかなのでしょう。

こののっぺりとして時間のない状態、これを後年安部公房は劇団を立ち上げて演技指導するときに、俳優に要求して、neutralな状態と呼んだものではないかとわたしは思います。

それは、確かに「詩以前の事」です。

この手袋の手が「詩以前の事」であるということは、また同じ第3の手紙の中に引用されている次の詩の後半部分、第2連によって明らかです。


心にもなく招かれて
想ひのほとり ほころべる
冷たき花の 涙かな

名も呼ばず 求めもせじに
たそがれの 面(おも)に画ける
宿命(さだめ)の花の 散りしかな


「名も呼ばれず 求めもせじに」とあり、「たそがれの 面」というのは、のっぺりとした時間の捨象された手のイメージを含んでいます。

面白いのは、この詩の前半部の「心にもなく招かれて」というところです。

安部公房の小説や劇の主人公は、みな「心にもなく招かれて」別世界の迷路を彷徨うのではないでしょうか。

さて、このように考えて来ますと、前回書いた


安部公房らしいのは、この手の出現が、「それは新しい手の出現の為ではなく、元の見順れた、私の手の喪失の為の悲しさだった様に想う。」と書いているところです。


と書きましたが、「元の見順れた、私の手の喪失」とは、個別のだれそれさんの手が、のっぺりと時間の無い手になってしまうということ、存在の手になること(die Hand des Seinsというだろうか)を意味しているのであり、その喪失の感情が悲しみだということになるでしょう。

わたしはここまで書いて来て、荘子という支那の古典にある次の話を思い出しました。それは、荘子の第7 応帝王篇にある話です。

渾沌の住んでいる土地に、ふたりのものが行って、饗応を受けた。感激したふたりはお礼に混沌という生き物(これは自然の象徴でしょう)に7つの穴を開けて、目や鼻の穴やらをつくったら、渾沌は死んでしまったというものです。

渾沌を存在と言い換えてもよいと思います。

従い、道ばたに落ちている手というものも、確かになりは手なのですが、今まで実はだれも見た事のない手であって、存在の手であるからには、名前を呼ぶ事ができずに、ぎょっとすると安部公房は、娘のねりさんに言いたかったのcだと思います。

それは、手ではない手、名辞以前の何ものか、なのです。

次回は、安部公房の顔について、同じ「第1の手紙~第4の手紙」から論じてみたいと思います。