2014年3月8日土曜日

【カフカの箴言7】


【カフカの箴言7】


【原文】

Eines der wirksamsten Verführungsmittel des Bösen ist die Aufforderung zum Kampf.



【和訳】

一番効果のある、悪事のする誘惑の手段のひとつは、闘いへの挑戦である。



【解釈と鑑賞】

保険の世界に生きた優秀なビジネスマンであったカフカが、これをどのような場合に思ったのか、興味のあるところです。

保険という、人間の生命のことと、それを失うことを秤にかけて計算をする商品を販売する世界で、このような警句を思うことは、屢々、あったことなのでしょう。

見かけ上、この警句は、保険とは何の関係もないように見えますけれども。




【ショーペンハウアーの箴言7】


【ショーペンハウアーの箴言7】



【原文】

Moral predigen ist leicht, Moral begruenden schwer.



【和訳】


道徳を説く事は易しい、道徳の根拠を言うことは難しい。



【解釈と鑑賞】


これも全くこの通りの箴言だと思います。

この説明ができないことを説明することを、わたしたちは日々、その日常の根底において、現実、否応のない現実によって、要求されているのではないでしょうか。

そして、言葉に出来ないことに、いつも苦しんでいる。

二つ目の文を読んで、その根拠を論拠づけるには、あることに徹した人生が求められることでしょう。そのような人間によってのみ、道徳の根拠の説明がなされる筈だと、わたしは思います。その人間が、しかし、どんなに非道な人間であっても、それが人間である限りにおいては。


2014年3月2日日曜日

【カフカの箴言6】


【カフカの箴言6】


【原文】

Der entscheidende Augenblick der menschlichen Entwicklung ist immerwaehrend. Darum sind die revolutionären geistigen Bewegungen, welche alles Frühere für nichtig erklären, im Recht, denn es ist noch nichts geschehen.



【和訳】

人間の成長の決定的な瞬間は、いつも継続してあるということ。それ故に、革命的な、精神的な運動が、総てそれ以前のものを無価値だと宣言しても、それは正しいということになり、それは何故かというと、今だに何も起きていないからなのである。


【解釈と鑑賞】

これは、当たり前と言えば、当たり前のことを言っているに過ぎない箴言かと思います。

しかし、よく考えてみれば、その手の運動は、この程度だということを言っているのかも知れません。

即ち、時間が瞬間の連続であり、未来のことは今起きてはいないので、何でも言えるということ、未だ生起していないという限りに、それは正しいということ。

しかし、正しいと書くカフカの眼は、辛辣な眼であると、わたしは感じます。それでは、革命など起きないし(革命が正しいものだと仮定しての話ですが)、また精神など欠片(かけら)もない運動だということになるでしょう。




【ショーペンハウアーの箴言6】


【ショーペンハウアーの箴言6】


【原文】

Ein Weiser ist man nur unter der Bedingung, in einer Welt von Narren zu leben.


【和訳】


人が一個の賢者であるというのは、ただ、愚者の世間の中で生きるという条件下で、賢者なのである。


【解釈と鑑賞】


この箴言を読むと、実は愚者も賢者もいないと言っているように聞こえます。


また、賢者と愚者は相対的な問題だとも言っていることがわかります。

面白いのは、ショーペンハウアーらしく、賢者を絶対視せずに、相対化しているというところ、これが、ショーペンハウアーらしいところです。

しかし、以外にもここのところに、人が生きる道を指し示しているのではないかと、わたしは思います。即ち、ひとに必要とされるという道を。

しかし、愚者にだけ、愚者にばかり必要とされるという人生も、疲れる話だと思います。




2014年2月22日土曜日

【カフカの箴言5】


【カフカの箴言5】


【原文】

Von einem gewissen Punkt an gibt es keine Rückkehr mehr. Dieser Punkt ist zu erreichen.


【和訳】

ある点からは、後戻りがもはや無い。この点に、到達すべきである。


【解釈と鑑賞】

この2行は、含蓄のある2行です。

ある点があって、そこからはもう後戻りができない。しかし、この点こそ、至るべき点であると言うのです。

即ち、もう後戻りすることの出来ない、何か絶対的な地点であり、また何かを始めるべき地点でもあります。



【ショーペンハウアーの箴言5】


【ショーペンハウアーの箴言5】


【原文】

Meistens belehrt uns erst der Verlust über den Wert der Dinge.


【和訳】

多くの場合、わたしたちにまづ最初に物事の価値を知らしめるのは、それを喪失することである。(わたしたちは、まづ物事の価値の喪失をして、初めて、その価値にきづくのである。)


【解釈と鑑賞】

これも、人間の真理を穿った警句です。

解釈は不要かと思います。読者各人の喪失を思って、理解をして戴ければ。

この警句はまた、積極的に、自覚的に喪失をするに至れば、物事の価値を知ることができるという反対の一行を隠し持っています。これもまた、真理であると思います。宇宙の真理を知るために、これを行うひとは極めて稀ではありますけれども。しかし、わたしはそのような人間こそ尊い、隠れて尊いと考えております。



2014年2月15日土曜日

【カフカの箴言4】


【カフカの箴言4】


【原文】

Viele Schatten der Abgeschiedenen beschäftigen sich nur damit, die Fluten des Totenflusses zu belecken, weil er von uns herkommt und noch den salzigen Geschmack unserer Meere hat. Vor Ekel sträubt sich dann der Fluss, nimmt eine rückläufige Strömung und schwemmt die Toten ins Leben zurück. Sie aber sind glücklich, singen Danklieder und streicheln den Empörten.


【和訳】


孤独なものたちの数多くの影は、ただ、死の河の洪水を舐めているのにいそしむだけである。何故ならば、死の河は、生きているわたしたちに由来するものであり、そして、わたしたちのういの塩辛い味を依然として持っているからである。すると、次には、吐き気の余りに、その河は、ささくれ立ち、逆流し、死者たちを生命の中へと逆に押し流して、入れるのだ。死者達は、しかし、幸福であえり、感謝の歌を歌い、そして、怒れる者たちをなでて愛撫するのだ。


【解釈と鑑賞】


冒頭、孤独なものたちと訳したドイツ語は、die Abgeschiedenenであって、本来は、分離されたもの、場合によっては死者と同義の、孤独な者、隠退した者という意味です。

とはいへ、まだ死んでいるわけではなく、一人とは言え、生きているのです。

そのような人間たちの影は、といっているところをみると、この孤独な隠退者たちは、文字通りにそうであるひとも含み、実際に社会のなかにいて、しかも尚そのようなものの考え方にある人間達を指して言っているのだと思われる。それゆえに、「孤独なものたちの数多くの影」といって、数多くの影という言葉を主語にしたのだろうと思います。

さて、そうだとして、そのこころの在り方の影は、わたしたちの生きていることから来る影であります。そして、その生活とは、死の河を舐めるのだという。死の河を舐めるとは、死の河の水を舐めるという意味でしょう。

そして、その河の水は、わたしたちの海から来るので、塩辛い。カフカが、人生を塩辛いと、生きることを、その味で呼んだということ、そのように考えていたことがわかります。

わたしたちの海とは、普通に考えると、わたしたちの生まれた、生命のもとという意味ですが、そうであるか、またそうでないかは別としても、わたしたちの生命、生活の由来する源、よって来るところは、海であって、もともと塩辛いものだというのです。

単なる生命讃歌では全然ありません。

また、海は単数形ではなく、複数形でありますから、それぞれのひとたちが自分の海を持っていて、その自分の海に由来していると、カフカが考えていることがわかります。これは、普通の海の形象(イメージ)とは全く別で、この複数の海そのものが、実に孤独です。それ故に、そうカフカは考えている故に、確かに、その味は一層塩辛いのでしょう。

これが、カフカという人なのでしょう。

さて、このような現実の姿を見て、死の河は吐き気を催し、その余りに逆流をして、死者たちを生命の中へ、生活の中へと、戻すというのです。
(この場合の河と訳したder Flussは、単数ですから、どの河もみな同じように一様に行動するという意味になるでしょう。また、こうしてみると、最初の死者の河といっている河は、死者達が流れている河という意味であることがわかります。死者達が流れて河になっているというのです。)

にもかかわらず、即ち塩辛い味のする生命と生活に戻って来ているのにもかかわらず、死者達は、喜んでいて、感謝の歌まで歌うという。
そうして、怒り、憤慨するものをなでて、なだめるというのです。

死の河の洪水とある洪水も、複数形ですから、それはもう何度もしょっちゅう、ひっきりなしに、日常的にやって来るのかも知れません。

さて、第二行目の「すると、次には、」とある、dann、次にはとは、一体なにがあって、その次には、そうなると言っているのでしょうか。

やはり、それは、「孤独なものたちの数多くの影は、ただ、死の河の洪水を舐めているのにいそしむだけである」という現実を見て、ということになるでしょう。その現実に吐き気を催す。死者達は、河のように流れているが、その死者達は、生者の中に生きている死者のごとき(死者そのものではない)生者に舐められるのに堪え難いといっているのです。

従って、その生者の故郷である塩辛い海などには帰りたくない。死者たちもまた、生者と同じ故郷、海に帰る定めのようです。死者と生者が同じところに帰って、一緒になる、そんなことは、いやだ、やってられないと死者達は考えて、生者の世界に逆流して戻って来るというのです。そうして、生者たち、とはいへ、しかし、隠者のように孤独な人間達の住む世界に戻って来る。

この箴言は、2行からなっていますが、最初の一行は、カフカのみた現実を、二つ目の行は、その現実の姿のおぞましさに、バランス(均衡)をとるために、カフカが想像し、創造した二つ目の現実ということなのかも知れません。

そうだとすると、カフカの小説を書くときの動機と、そのありのままの姿が、ここにあるということになります。

死者達が生者の中に生きている世界。何か、ヨーロッパの中世の、死の舞踏と呼ばれる銅版画のある時代を思わせるような気がします。

死者達が帰って来て尚、この世で生きるものの中に怒れる者がいて、死者がその者をなだめ、慰めるという書き方をするほどに、何かカフカという人のものの見方には、情け容赦のないものがあります。怒れる者は、単数形で定冠詞がついていますので、何かその姿は人間の典型であるかのように書かれています。