2012年8月23日木曜日

根石吉久さんの「英語どんでんがえしのやっつけ方」(小学館文庫)を読んで


根石吉久さんの「英語どんでんがえしのやっつけ方」(小学館文庫)を読みました。

根石さんのものの考え方と方法は、具体的、独創的に命名された学習プロセス、学習体系の用語は、わたしにはありませんが、わたしがドイツ語を学習した考え方と方法と全く同じでした。

以下、読後の感想を、わたしのドイツ語学習法との関係で、書いてみたいと思います。

大学に入って第2外国語にドイツ語を選択したときに決心したことは、英語をあれだけ学んだのに英語が全然ものにならなかったのは学習の考え方と方法が間違っていたに違いない。ドイツ語を学ぶときには、全く自分独自の考えで、英語のときとは全く違う方法でドイツ語を学ぼうということでした。

教わった英語の学習方法の間違いの原因は、根石さんは文法構造の違い、特にSVOと来る英語に対して、SOVと語を配置する日本語のシンタックスの違いにあると指摘していて、これは全く、当時わたしの感じ、考えたことでした。

このことについての疑問は、たったひとつの疑問文によって、表現されるのです。それは、

何故英語の文を頭から読んで行ってnative speakerは理解するのに、日本人は、文法に頼ってあっちへ行き、こっちへ行きしなければ、文の意味が理解できないのだろうか?

という問いです。

従い、わたしのドイツ語学習の眼目は、最初から、ドイツ語の文の連続(文章)を頭から読み下して行って、そのまま意味を理解するためには、日本語の世界に生まれ育った日本人として、何をどう考え、どのようにすればよいのか(方法)ということにありました。

ドイツ語とドイツ文学を修得しようと(実は内心は言語とは何かという問いに正面から答えてみようと)進級した修士課程で教わったドイツ語とドイツ文学は、まづ専ら読むということ、読解ということ、従いそれは、英語の文章の読解で犯したのと同じ学習法でした。

(誰がこの間違いを犯したのか?英語教師であり、文部省である。しかし、勿論明治時代のひとたちにとっては、この方法は、正しく、有効だったと思う。それは漢文ができたから。江戸時代の遺産の上にその読解法は有効だったのだと思う。しかし、わたしに漢文の素養は恥ずかしいことに、無いのだ。そのような無知の人間として、一体どのようにこのドイツ語という言語を自家薬籠中のものにできるのだろうか?というのが、当時のわたしの問いであり、回答を得る努力でした。)

即ち、ドイツ語文法を基に、文のあっちこっちに飛んで文を理解するという方法です。

修士課程の1年間を、しかし、そうやって寝食を忘れ、睡眠時間を削って勉強すると、集中するというのは凄いもので、ゲルマン民族の記録に残る最初の文字の中世のドイツ語から20世紀現代のドイツ語まで読めるようになりました。

しかし、わたしはこの学習方法の限界を感じました。これでは駄目だと思いました。これでは、英語の場合と同じ過ちを犯している。

読み下して原文のドイツ語を理解するということを実践するには、ここにいても限界だと思いました。それで、当時誠に恐ろしくも未開未知の国であった共産主義国家東ドイツにドイツ語日本語英語の通訳と翻訳の仕事で渡独したわけでした。

その目的は、只一つ、ドイツ人の速射砲のように、マシンガンのように連射するドイツ語の意味を聞いた順序で理解すること、その言葉の出て来る順序で瞬時に理解をし、また自分も同様に同じ言葉の順序(シンタックス)で言葉を返す事、それに、同じようにしてドイツ語のテキストを読むことです。

それには、自分の声を持つ必要がある。と、そう思いました。そうして、実際ドイツでは、仕事も通訳という仕事柄、自分のドイツ語の音声を持たなければ生きては行けない。自分を意図的に、そういう場所へと追い込んだのです。

自分の声、それもドイツ語での自分の声を持つ必要があった。そうしないと、上の目的は達せられなかった。

頭の中でも、音に出してドイツ語を読んでいるのは、日本語で日本人が文章を読むのと全く同じことです。

毎日朝の4時頃になると、うなされるようにして必ずドイツ語で夢を見た。全く直かにドイツ語で夢を見た。実に流暢に速射砲の如く、マシンガンを連射するが如く、覚醒後に思い出すと完璧にドイツ文法に則って誤る事なく、ドイツ人と対等に話をし、会話も対話もしているのです。これが絶える事無く、4ヶ月続いた。即ち、その間、現実の世界の通訳としては全然糞にも役に立たなかったということです。

この自分の声を持つという訓練をすると、ドイツ語の文章を読む速度が圧倒的に速くなった。それは、そうだ高速度で発声し、読めるからです。実際に声を出さなくても、頭の中で発声し、流れる如くに読んでいるのです。

このとき、ドイツ語の旋律と韻律(リズム)を、わたしは体得したのだと思う。

そうなって来ると、ドイツ人が発音する一語を聴いて、瞬時にその言葉の概念、言葉の意味の全体、根石さんの言葉で言えば、イメージ、それからもっと抽象化した生きた言葉の全体の意味であるイデアを、瞬時に音を聞くや否や、理解するという経験をすることができた。これは、誠に不思議な経験です。

音から、音で、言葉の意味の総体、即ち概念を理解するのです。概念がわたしの中に瞬時に入って来るのです。

辞書を引かないで、頭もあれこれひねらないで、その語が発音されて、音声で音を聞いただけで、そのコンテクストを通訳の現場で理解しているので、そのことを前提に、瞬時にその概念、概念というのはわたしの言葉であるが、その概念を理解できるのである。

(根石さんは詩人ですので、詩から言語に入って来るからイメージというのだと思う。わたしは散文から言語に入って来たので、概念というのだと思う。)

この経験は、翻って、今度は英語を読むときによい影響を及ぼした。英語も、自分の声で、自分の旋律と韻律(リズム)で読むことができるようになったのです。それはドイツ語訛りの英語であるけれども。しかし、つまり、頭からの読み下しができるようになった。

そうなってみると、英語の、俗にいうヒアリングの能力が向上したのです。(まあ、わたしの程度のヒアリング能力ということであるけれども。)

また、不思議なことに、その日本人に、ドイツ語の一文なり、一節なりを、一寸でも音に出して、読ませると、その日本人のドイツ語の実力が即座に解るようになった。口には出さないが、その音読での読み方を聞くと、それが解るのです。

ただ如何にも流暢に見せて速く読んでもだめで、やはり言葉の一語一語の意味とその連結された意味、そして、SVOという文の構造(形式)との整合性のとれた理解が、音声に載って、響いて来るのです。即ち、傾聴していて言葉の意味がわたしの中に入って来るのです。

わたしはもう一つの詩文専門のブログ「詩文楽」でドイツ語の詩を訳していますが、この場合、わたしの翻訳の方針は、日本語のゆるす限り、日本語の配置で日本語の意味が壊れるぎりぎりまで、その手前直前まで、ドイツ語の語順で頭から訳して行くというものです。これはわたしの読み方の、即ち理解の仕方の順序そのままなのです。またもうひとつ言えば、ドイツ語の意味の世界に少しでも日本語を介して生に近い形で経験してほしいと思うからです。

今は日本にいて日本語の環境の中にいるわけであるので、ドイツ語を話す機会が少なく、発声して話す速度は遅くなり、読む速度も遅くなったが、しかし、旋律と韻律を以て頭から読み下す能力は全然衰えていないと思われる。

この読む速度の高速化には、もうひとつ、実は、語の概念を理解するという成果、概念化をするという成果があって、初めてできるのですが、これについてはまた稿を改めて、論じたいと思う。

概念化ができるようになると、薬の壜に貼ってある能書きも、あっという間に斜め読みできてしまうのでした。

わたしのいう概念化を、根石さんはイメージをつくるといっているし、更にその語のイデアを知るという言い方をしている。全く同じ事を、ふたりとも言っているのです。

最後に付言すれば、日本人のドイツ語の文法の世界には、関口存男という素晴らしいドイツ語文法の大家がいて、意味形態という言葉を、このひとからわたしは教わりました。このことについて書いておきたい。

それは、わたしが39歳のときに言語とは何かという問いに正面から答え得た言語機能論と全く同じなのですが、同じ事を、意味形態という独創的な言葉によって、ドイツ語ばかりではなく、そもそもの言語の本質をより容易に、解り易く伝えるために、この偉大な文法学者(単なる学者ではなかった)が概念化してつくった言葉なのです。勿論、関口存男は、時折機能という言葉を使って、その著書のあちこちで言語を論じてもいます。

気がついて廻りを見廻すと、ソシュールも言語機能論だし、ヴィトゲンシュタインも言語機能論でありました。

前者は、言語の機能をチェスというゲームの駒の説明で行っている。後者は、言葉の意味は人間の使い方によって定まると実に平易に言いっていて、その言語のイメージ、形象を、建物の周囲を囲む、建築のために高く構築された足場に譬(たと)えております。これは、全くその通りの、言語の本質の素晴らしい、正鵠を射たイメージ、形象だと思います。

あるいは、ヴィトゲンシュタインの言葉で、言語ゲームなどと日本語に訳されているこの命名からも、言語が機能であるとヴィトゲンシュタインが考えていることが自明のこととして解ります。

ソシュールもヴィトゲンシュタインも、期せずして、言語機能論をゲームに譬えて説明をしているわけです。これは面白いことだと思います。

言語機能論は、何も、わたしの独創ではありませんでした。誰が考えても至る、平々凡々たる言葉の事実であるということです。

さて、この関口さんの文法の素晴らしさは、実践的だということにあります。即ち、日本語の世界にいる日本人が日本語の意味の世界から、ドイツ語の意味の世界を理解することが過不足無くできる、日本人の感覚にぴったり来るように(頭で理解するのではなく)ドイツ語の意味の世界を理解することができる、日本人のためのドイツ語文法だということです。

この方の文法にもまた、別に稿を改めて論じることがあると思います。

わたしが根石さんのようにドイツ語の塾を始めるとして、さて、どうやってドイツ語を教えたらよいものか。と考えてみました。

わたしの経験したのと同じ経験をさせることはできません。そうであれば、日本にいて、ドイツ語を理解できるようになるにはどうするかという問いに答えることになるだろう。

と、こう考えて来ると、やはり関口文法に戻るのです。関口存男の意味形態という考え方でドイツ語を教える。

そうして同時に、詩や散文の一節を音読させて、暗記させる。何度も読ませることになるのは、根石さんの回転読みに似て来ることでしょう。

根石さんの本を読んで、一度、わたしの経験を整理して、体系立てることが必要だということがわかりました。

自分が覚えた順序と、それを人に伝える順序は異なるということを十分意識しながら、ドイツ語学習のマニュアルを書くということになるでしょう。

最後は何か、わたしの備忘のようになりました。


追記:

わたしのドイツ語の実力は、公平に見積もって、松竹梅でいうと竹、上級中級初級でいうと中級の初またはせいぜい中どまりといったところだと思います。

しかし、難解な哲学書や論文、高級高度なリルケのような詩を読むにも、実際に使っているのは、初級文法です。あとは、ただただひたすらに辞書をひいてきたのです。

日本人のドイツ語の世界には、日本語の世界でいうなら広辞苑に相当する木村相良と編著者の名前を冠して呼ばれる独和辞典があるのですが、20代のうちに、これを4冊引き潰しました。今あるのは10年前に近所の古本屋で買った5代目です。

今の世は、インターネットがあって、簡単に英独、独英など、またグリムの辞書も無料でネットで使えるので、これはもう実に言葉の検索は楽になりました。グリムの辞書などは、学生のころ、もし紙で持つと30数巻を超えたと思います。それが、今ではネットで無料で使えるとは。

また、パソコンには、ドイツ語でドイツのニュースを視聴することができる時代ですし、ドイツ語の学習法も当然楽になり、変わりました。

しかし、語学修得の根幹、即ち、読み下し、聴き下すというところは不変です。

さあ、これをどうやってものにするか。これが日本人にとっての変わらぬ問題なのです。

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