2012年7月29日日曜日

Ironieについて


Ironieについて

ドイツ語でIronie、イロニー、英語でirony、アイロニーというこの語に、日本語で一語で対応する言葉は、勿論ない。それは、翻訳上の要請によっても、当然そうである。

やはり、カタカナ語でイロニーというようにこの言葉を使うことにしよう。

わたしがトーマス•マンから教わった重要なことのひとつが、このイロニーであった。

今手元にあるSachworterbuch der Literatur (Gero von Wilpert編纂)をみると、色々なイロニーの意味について説明がしてあり、最後にトーマス•マンのイロニーについて述べていて、それは、

精神が、今ここにこうしているということ(Dasein)の悲劇から距離を置いて自分自身を保持すること

と記述している。

これは、全くその通りだと思う。今ここにこうしていること(Dasein)の悲劇の悲劇とは一体なにかというと、それは人間は、与えられた空間の中と時間の中にいると必ず矛盾の中で生き、矛盾そのものを生きることになることを言っている。

(トーマス•マンは、この現実、この事実をTonio Kroegerの中で、Komik und Elend、滑稽と悲惨と呼んでいる。)

何故、わたしがこのことを知っているのかは解らないが、今ここに、この一次元の流れる時間の中にいると、完全な物事の姿が散乱し、丁度鏡が壊れて粉々に砕け散っているように物事が散乱して見えるのだ。

わたしが社会に出て、わたしという人間を理解するときの難しさが、このイロニーだったのだと、今この年齢になって、しみじみと思う。

随分と自分勝手な人間に見えた事であろう。また、今も変わらず、そのような人間に見えることであろう。

この今ここにあること (Dasein)の矛盾を矛盾でなくするために、ひとは命令し服従するということは、生、生きていることの一面であることは間違いがない。そこに道徳も生まれ、倫理も生まれ、社会も生まれ、人間的な感情も生まれる。

しかし、他方、このわたしの無道徳な感覚はどうしようもないものがある。A-moral.

Aなのだ。無関係なのだ。道徳とは無関係。そもそも、関係がないのだ。

(しかし、アモラルな人間とは、一番美味しいものを、一番最後までとっておき、最後に食べる人間でもあるのだ。それが、普通の人間とは違う。流行を追うことがない。不易である。)

20代に読み耽ったHanser版のトーマス•マン全集にあったマンの評論あるいはエッセイには、

Geist ist Ironie.

と、そう書いてあったことを思い出す。

これは、

Ironie ist Geist.

とひっくり返すこともできる。

イロニーは、この浮き世に散乱して、互いに無関係に見える物事を結びつけ、接続し、関係を発見する精神の活発な働きである。

この言葉の語源は、同じ辞書によれば、ギリシャ語のeironeiaに由来し、ドイツ語でいうならば、Verstellungという意味である。

このVerstellungという語が、Ironieの一番よい説明であると思う。

Verstellen、フェアシュテレンとは、づらすこと、変形させること、別のものに置き換えること、従い、譬喩(ひゆ)すること、何かに譬えること,tranformすることである。

これが、Ironieであり、Ironieの能力、即ち、精神の働きである。

この精神の力は、わたしには何ものにも換え難い、掛け替えの無い、人間の能力だと思われる。

この能力によって、ひとは、一行の文を、それぞれの個別言語において、発し、歌い、また書くのである。

わたしは、よく何かの折りに、わたしは偽物、偽者ではないかという思いに捕われることがある。

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