2016年3月29日火曜日

松宮宏氏の小説について

松宮宏氏の小説について

安部公房の世界から松宮宏といふ小説家の世界を眺めるとどのやうに見えるのかといふことを述べて、私の批評の文としたいと思ひます。

この間、私の読んだ松宮作品と其の順序は、次のやうなものです。

(1)まぼろしのパン屋
(2)秘剣こいわらい
(3)くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい
(4)さくらんぼ同盟

最初に読んだ「まぼろしのパン屋」で既にこのやうに思つたこと、即ち松宮作品には、3つの特徴があることを知りましたので、それは箇条書きにすると次のようになります。

1  仮説設定の文学

この作家の文学は、安部公房の語彙をそのまま借りますと、仮説設定の文学です。

同じ作家に、同じ関西生まれの筒井康隆がゐます。

仮説設定の文学といひますのは、文字通りに、ある仮説を立てて、その仮説をそのまま敷衍したら一体何が起こるのかといふことを、どんなに奇想天外な話にならうとも、徹底的に最後まで書き抜くといふ文学、そして此の場合は小説です。

安部公房ならば、位相幾何学の発想から、人間のコモン君が突然デンドロカカリヤ・クレピディフォリア(Dendrocacalia crepidifolia)なる植物に変形してしまふ、あるひは、S・カルマ氏が壁になつて永遠に垂直方向に、砂漠の中で成長してゆくといやうなものです。

『さくらんぼ同盟』ならば、美しく艶(つ)やかなさくらんぼが人間の腋に埋まるやうにして出現するといふ奇病の設定といふことになりませう。それによつて、物語が実に大きく進行し、展開するのです。

この設定といふ事は、仮に事実に材をとつた場合でも、同様にあるものと思ひます。

これは、この作家の本来の力なのですが、しかし他方、読者の目には、作者の旺盛なあるサービス精神と映ります。作者と読者はかうして永遠に誤解しあひ、永遠にすれ違ふ仲なのです。


2 話法(mode)

この作家は話法を多用し、これを縦横無尽に使ひこなします。

さうして、ここに、この作家の一番生き生きとした感情が現れる。それも、関西弁を使ふので、益々陽気な、いい感じの声調(voice)があらはれます。

例えば、『秘剣こいわらい』は、冒頭から主人公の内的独白の一人称の小説ですが、読み進めるうちに、作者(話者といふべきでありませう)が、直接話法、即ち「 」を使つて登場人物同士の会話をさせるのを契機に、話法が切り替わつて、いつの間にか、作者の筆は人称を渡つて出入りを繰り返して、読者の意識を、地の文と会話(直接話法)と主人公の一人称の内的独白の境界を自由に行き来させるのです。これが、読み手には実に広い快感を与えへ、娯楽を与へてくれるのです。


3 誇張

これは日本語ならば誇張ですが、これを英語でいひますと、deformation、再度日本語でいふならデフォルメが、この作家の3つ目の特徴で、これも上の2で言及した作者の声調(voice)と裏表の関係にあつて、やはり効果を上げてゐて、読者を最後まで飽きさせずに引つ張つてゆく牽引力になつてゐます。

この誇張によつて、作中に笑ひとユーモアが現れます。この笑ひとユーモアは、俗にいふ純文学には甚だ少ないものであつて、作者が何故娯楽小説、いや小説に娯楽を求めてやまないかは、ここに、その理由があると思はれます。

さて、これらの3つの特徴、言い換へれば、この作家の小説を構築する際の技術といふべきものですが、この藝術といふ表現の技術を用ゐて、作者は、作品といふ器に何を盛るのかといひますと、これが冒頭に掲げた作品全てに共通するものなのですが、これがまた、実に古風でありまして、人間の持つ古いものに対する憧れと、古いものを大切にするこころなのです。

これが、松宮文学の良さです。その典型として剣術が、そのやうな憧れのこころを表すための、大切な素材となつてゐるのです。

もつと言いませう。即ち、松宮文学の真骨頂は、義理、人情、浪花節なのであります。如何にも関西の作家です。どの作品も、最後に必ず読者の胸をキュンとさせて、読み手を泣かせる結末になっている。

さて、さうして、最後に述べますと、結局は上の2の話法の話になるのですが、この作家が三島由紀夫のファンである理由は、上の話法と云ふ技術を使うことによって、現在から過去へと話者と主人公の意識が追想し追憶すること、これがこのまま作者の作品の構造化の試みになつてをりますので、作品の此の構造化された様式が、そのまま三島由紀夫の世界の根底にある三島由紀夫の意識の在り方に通じているからだと、私は思ひます。

三島由紀夫の諸作品の持つ、常に今この瞬間の此の只今の現在から過去を追想・追憶するといふ様式化に、この作家の作品の構造は通じてゐるのです。

『秘剣こいわらい』『くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい』と連作が続き、既に第3作目は完成してゐるとのことですので、実に楽しみなことです。

この第3作は、間違いなく上の3つの技術・技藝を存分に活かした作品になつてゐるに違ひありません。

さうであればこそ一層の傑作である此の作品の刊行が切に待たれます。



2016年1月24日日曜日

伊藤文學さんの出版記念会

昨日は、薔薇族の元 編集長、伊藤文學さんの新刊、『やらないか!』の出版記念会であった。文學さんのお気に入りの、いつもの銀座である。

その世界では今も人気の高い山川純一の絵を使っての、謂わば文學さんと山純(と短く愛称されている)のコラボレーションである。文學さんの文章も、勿論相変わらず、いい。


楽しい3時間だった。文學さんの人脈は多彩で、昨年の紅白歌合戦に出場した大原櫻子さんのお姉さん(実は、わたしは学生のときからのお姉さんを知っているのだった)、仙台の河北新報社の東京支社長、この方の曰く2011年3月11日1日で読者が4万人減少とのこと、理由は翌日配達にいっても投函する家がなかったとのこと、今は半分が回復ということであった。その他全学連で二千人の学生を指揮した60代後半の出版社社長(警察に捕まるやつには3つのタイプしかないと言って教えてくれた)、背中に 「ウホッ!いい男」というキャッチコピーに山純の男の絵を背中に描いたTシャツを着て新橋の通りを会社まで歩くと、その数百メートルの間に1週間で20人の男色者に声を掛けられるのだとのこと。そのうちの2人は美しい若者であるとのことだ。10%にこころ惹かれるという。本人はノンケである。しかし、もうこの歳だから、試しにやってみようかといっている、多分半分は冗談。女流棋士、林葉直子のヌード写真集を近々出版とのことで、その本を見せてくれた。ご本人は不治の病であるやうだ。生前最後の出版になるだろう。この女性は美しさが仇になったな。社長のTシャツの背中が見えようか。立っているのが文學さん。



文學さんは、週刊文春に報ぜられたとのことであるが、80を過ぎて、男色を経験してみたとのこと。僕のおチンチンはこの年だから、快楽もないしオシッコを出すだけのもの、今度また関西からその坊さんがやってくるが、もうお断りしますといって笑いをとっていた。坊主の世界にも、いるのだな。しかし、坊主だというのが何か納得する気持ちがするのが不思議だ。確かに、坊主も男の世界である。

それから、イタリア人の若い研究者で、薔薇族を読んで修士論文を書いてイタリアで本にして評判をとった日本語の実に流暢な好青年。ヨーロッパにはこの手の世界に関する詳細なレポートがないとのことである。薔薇族はすべてアメリカのコロンビア大学に収蔵されているのだが、ヨーロッパの大学の図書館にもどこかで収蔵されることを願う。本人にはその気配ないようである。

また、東大の若い先生で、LSBGの専門なのだとか、文學さんの観察によれば、バイセクシュアルはないというのであるが、その質問に答えて曰く、学生の研究の成果によれば、男女ではことなるさうである。男性にはほとんどいないとのこと。女性はいるのださうだ。この東大の先生の同伴の若き女性は誠に美麗であり、私も眼福に預かったが、従い、ご本人にはその気配はない。




それから、団鬼六さんの奥さんの美声を拝聴。20分間の歌謡の舞台を拝見。キングレコードの専属歌手とは知らなかった。70を過ぎてなほ美声でした。30歳のときに団鬼六と出逢って、前妻と子供を蹴っ飛ばして一緒になるのに9年かかったと、歌の合間に語ること、これもまた普通に苦労の人生であったらうか。しかし、出席者はみなそれを笑い飛ばしていた。そういう年齢であり、そのような人たちである。



復刻ドットコムの社長とも再見。ご挨拶をする。上の写真に後ろ姿が見える。前回お会いしたのは、銀座のキャバレーであった。やはり文學さん主催のパーティーである。安部公房が絶版になることはあるまいが、万が一のときの命綱である。文學さんの書籍は社内全員反対、これを押し切って出版のところ、大当たりをとって面目を施したとのこと。今では編集者の反対者はなく、みな改宗したとのことである。めでたし、めでたし。

下は、わたしの隣に座った美しき編集者女子である。目元涼やかにして切れ長の、肌は美白である。既に文學さんの本を手掛けている。更なる他の著者の新刊の紹介中であるが、売れることを祈る。もぐら通信を読んでくださるとのこと、ありがたきかな。良き土曜日の午後であった。





2015年11月28日土曜日

超短篇2:菊と蛸


菊と蛸


朝の電車が橋の上で遅延をした。渡る先の駅で投身自殺があり、橋の上で止まつたままで一時間余が死体の処理に必要だといふ車内放送だつた。

桜木鷹彦は、向かいの席に座る菊姫の美しい脚を、いつもより長く視ることができて幸せだつた。

毎朝眼の前に座るその美しい脚の、いつもみとれる名前の知らぬ所有者を菊姫と、目にした時に名付けたのは、秋と冬の端境の時季の、駅に向かふ途中、いつも通りかかる庭の籬(まがき)の向かうに不図菊の花を眼にした後の、それは、車中での事件であつたからだ。菊の花言葉にある愛情の深さを感じたのだ。

菊姫の時間は奇跡の朝だ、何故ならば、菊姫の美しさからその脚は生まれたが、その脚の美しさは菊姫を生んでゐるわけではないといふ矛盾を、橋の上にゐて、いつもより長く眺めながら味はうことができるから。

嵯峨菊絵は、毎朝電車に後から乗つて来て、目の前の向かうの席に座る若者に気づいてゐた。知られぬやうにこの若者を観察すると、この若者が蛸であることに気づいた。それは、生態学的には、頭が実は胴体であり、胴体の下に脳味噌目玉が付いてゐて、脚が実は脚ではなく腕であつて、腕には吸盤が無数についてゐるのを見たからである。

この蛸は既にして倒錯の生物であつた。

菊絵はこの時とばかりに、バッグの中から包丁を取り出して、蛸の脚の一本の上に包丁を置いて少し手を離すやうにすると、ストンとばかりに包丁は落ちて、そのまま蛸の脚の一本を切落してしまつた。切れ味の良い包丁だ。

菊姫が突然やつて来て、鷹彦の唇を吸つたので、鷹彦は驚いた。もつと吸つて欲しいと思つたので吸ひ返すと、菊絵はもう一度包丁を二本目の脚にストンと落とした。菊絵は、蛸が快楽の声を上げるのを聞いた。菊姫の口吸ひは強烈だつた。鷹彦は唇が菊姫の口の中へと吸ひ込まれてしまふことに抵抗できなかつた。菊絵はもう一つストンと包丁を落とした。快楽の声が上がつた。これを繰り返して、到頭鷹彦は頭である胴体だけになつてしまつてゐる自分を胴体の下から眺めてゐる自分に気づいた。その眼で菊姫を眺めやると、菊姫には8本の脚が吸ひ付いて、体中に吸盤が猛烈な口吸ひをなしてゐるのを見て、蛸の眼と口と胴体は快楽を覚えた。菊絵は快楽の声を上げてゐた。その声を耳にして蛸は一層快楽を覚えて行く余りに、ついに眼と口と胴体に分裂してしまひ、電車の走行が既に再開してゐて、蛸は次の駅のプラットフォームの間の線路に横たはつてゐたのに気づかなかつた。それは一時間余前の投身自殺であつた。

嵯峨菊絵は、快楽でなほ震えてゐる包丁を大切にバッグにしまひ、菊姫となつて、蛸の時間の停止した駅で永遠に下車してゐたのである。





2015年10月13日火曜日

超短篇1:月の呪文


月の呪文

古謡に《月は鏡なり、鏡は月なり》とあり......

ある年の十五夜に起きたことである。

白い背黄青鸚哥(せきせいいんこ)を飼つてゐる。

払暁に向かひ、眠りが浅くなりゆく時に此の鳥の啼き声を聞いた。奇妙な夢なりき……

もはや寿命の終はりが近いのであらう、我が家に来て7年になる。この頃は、歩くのもよろばふ感じがあつて、急に体を動かすなどすると、時折肩から落ちることがある。

この夢で、白い鳥はわたしの体から落ちて、落ちると裸になつてゐて、羽毛の皮はポロリととれ、小さな剥き出しの鳥になつてしまつてゐた。奇妙なことに、顔は羽毛のふさふさとしたままの、白い鳥の顔を被つたといふ顔である。

わたしは驚いて、裸の鳥を拾ひ上げた、手のひらの上で、生きてゐるので安心をする。下を見ると、羽毛の毛皮が落ちてゐて、鳥の毛皮は衣裳のやうに其のままに、中が虚(うろ)になつて、落ちてゐる。

鳥の仮面を被つた裸の鳥を、その衣裳に戻してやらうと、それを拾つて、裸の鳥に被せた、そこで目が覚め、いや、目が覚めたかと思ふと、白い鳥は既にして、再び我が肩にとまつている。

わたしは、白い背黄青鸚哥である。

今かうしてゐても、わたしは肩の上にとまつてゐる。

さうして、また一年を待つている、月の呪文を啼きながら……



2015年10月4日日曜日

『関西魂』(かにたま)を読む(2)


『関西魂』(かにたま)を読む(2)


4。『モテラボ』:松尾佑一

わたしは、この短編集の最初に其の表紙を見て、いいなと思つたのです。これは一体どういふ女性であるのかと、想像を巡らせた。

ところが、この作者の紹介欄をみると、男性名であつて、この表紙も描いたとある。

この方は、やはり女性に違ひないとわたしは思ひますが(あるひはよし男だとしても非常に女性的な繊細さをお持ちの男性なるらむ)、この裏と表との落差に、何かこの方の特色があるのではないかと思ひます。

それは、表紙の絵も、矢印を描いた標識があちこちに散見されて、矢印とは方向を示す標識ですから、これもそのままもつといへば、安部公房の世界に通じてをります。何故ならば、矢印を掲示し、方向を指し示すといふことは、あるモデルを製作して、それを示すことに他ならないからですし、この方の経歴が理工学部の研究者でゐらしたといふことも、やはり、この表紙絵の指し示してゐる通りであると思ひます。

この方を4番目に置いたのは、前の3名の(SFの)作家と同じ列に並んでゐるからで、即ち、(SFではないものの)終わりが開かれてゐて、この登場人物と大学の理工学部を舞台に、やはり連作になり得る作品だと思つたからです。鏡餅といふ名前の面白い柴犬も含めて。

略歴を拝見すると、既にprofessionelでゐらつしゃるので、さもありなむと思ひました。


5。『君が得た楽園について』:冬原あや

柚木といふ美しい若者に対する呼びかけで始まる小説です。

二人称の呼びかけを一人称のわたしがして、その回想の形式で、この若者のことが始まり、その後に、三人称(柚木)とわたしといふ一人称の章が登場して、それぞれの章の長短は別にして、この二つの書き方の章が謂はば交代しながら、最後まで話が進むといふ書き方で、この小説は書かれてをります。

前者は、独白であり、後者は、叙事になつてゐます。

この差異が、話の筋にメリハリを与へてゐるのではないでせうか。

著者紹介欄に、「ボーイズラブをこよなく愛」するとありますので、そのやうな方のお書きになつた小説と、読み終えてから其れを読みますと、確かにさう思ひます。

最後の終わり方は、やはりわたしには安部公房の小説の結末を、大いに連想させました。

この方は、安部公房の読者なのでありませうか。

もしさうならば、もぐら通信をお読み下さると、嬉しい。:http://abekobosplace.blogspot.jp

全く、この小説とは関係はありませんが、わたくしめは、柚木なる草深き里にすまひしてをります。


6。『リアル』:原瑚都奈

著者紹介欄に、「昨日は友達と居酒屋でどっちが美味しそうにご飯を食べられるかを競争しました」とありますので、これは若い方でありませう。(とてもわたしには真似はできないと思ひました。)

人間が何か中間状態にゐて、その曖昧の地帯にただよふところを書いてゐると思ひました。その不安も、快美も、両方を。

それは、最初の一行が、水泳部のプールに浮かび、また潜る主人公の若い女性のことから始まり、最後の一行の、自分が混血である中間状態の人間と自分のなる因をなした父親の見返へす眼を描くところまで、思ひとしては首尾一貫してをり、この方の関心の在り処が、このやうなところにあることに、共感を持つて読みました。

何故ならば、これも、安部公房に通じてゐるからです。もし安部公房の読者でなければ、安部公房をお読み下さると、嬉しい。またもや、このURLをお伝へして、お返しと致します:http://abekobosplace.blogspot.jp

主人公にとつての現実がリアルなのか、それとも向かうの非現実がリアルなのか、どちらもリアルであるのか、いづれの意味であれ、それが小説の題名の意味だと思ひました。


7。『河童地蔵』:野棲あづこ

この最初の入り方の数行を読んで、ああこれは詩だなと直感しました。

それは、どのやうな詩かといひますと、従ひ、河童の登場する詩なのです。

さうして、その河童といふ名前は、同居する部屋の持ち主に使はれて、その持ち主は、「かつぱ先輩」と呼ばれてゐる。

この河童さんの棲む部屋と其の塵(ごみ)の描写と、雨によつて冠水する洪水の如き其の様子を読むと、これもまた、安部公房の世界を連想するのです。

安部公房の小説も、その実体は、詩的散文であるからです。また、洪水、即ちこの世の破滅、ご破算は、安部公房の重要な主題のひとつです。

さて、安部公房によれば、塵捨て場は、接続の場所ですから、異界と現実が接続される場所なのであり、当然のことながら、この部屋にもチビと呼ばれる、本来は死者である筈の、古い時代に水害をおさめるために人柱になつて死んだ子供が登場します。

この部屋には、やはり時間がないのです。

お地蔵さんになるかつぱ先輩といふ結末は、作者は意識してゐないのではないかと思ひますが、陸と川、土と水の上位接続になつてをります。

これをこのまま考へますと、やはり此の小説も連作が可能で、この塵捨て場の如き部屋に棲み続ける話者である主人公を主人公にして、先々の話も書くことができるのではないかと思ひました。

またしても、おすすめするのは、このアドレスです。:


やはり、これも、今回の編集の主題である「幻想」といふことから生まれた一作だと思ひました。


8。『三輪山』:森山東

一言でいひますと、三輪山といふ山が御神体である聖なる山を巡つて、現実と夢想と、現在と過去とが交代しながら叙述されて、そのくりかへしが話として進行するお話といふことになります。

この現在から過去を追想し、追憶するといふ語り口が、三島由紀夫の愛読者といふ感じが致します。

さうして、最後の一行は、三島由紀夫の絶筆『天人五衰』の有名な最後の一行へのオマージュとなつてをります。

さうして、やはり、最後のところへ来て、自分を捨てた男を恨み、藁人形に針を何度も突きかへす場面は、一寸恐ろしい、おどろおどろしい感じがしました。

それは、周りが、聖なる三輪山の中であるだけに、一層のその呪術と三輪山の神(蛇であつたでせうか)のすまふ神聖な世界との分裂、背反が、そのやうな効果を生んでゐます。

また、そのやうな呪術行為のあとに、一切が忘却されてゐて、それまでのことが夢か現(うつつ)かとなる其の書き方もまた、そのまま上述のオマージュの言葉の効果を一層高めてをります。

読後に知つたところによれば、作者はホラー小説の名手のやうで、さもありなむと思ひました。

早速Kindleにて3冊をダウンロード致しましたが、実は恐ろしくて、まだ未読です。

魔除けのお呪(まじな)ひを唱へてから読まうと思つてをります。











2015年9月26日土曜日

『関西魂』(かにたま)を読む



『関西魂』を読む

ある機縁から、関西在住の方達の短編の収録された標記短編集を読みましたので、思ひ、感じたことを、徒然なるままに書かうと思ひます。

わたくしの、怪しうこそものぐるほしけれといふ気持ちが出るかも知れませぬので、ご容赦あれかし。

どの小説も面白く拝読致しました。作者の来歴も全く知らず、作品のみを拝見して、感じたところを述べることに致します。

これは、SF小説だなとおもつたのは、次の3作でした。わたしは多分SF小説が好きなのでせう。

1。『ゾンビーソング』:在神英資(あるかみ・えいし)
2。『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』:新熊昇(しんくま・のぼる)
3。『闇宿る岩』:蒼隼大(あおい・しゅんた)

この3作に共通して抱いた感想は、これは連作の一篇であるか、またはこれが最初の作品であるとすれば、この結構を使つて、そのまま連作(シリーズ)ものが書けるであらうといふことでした。

1。『ゾンビーソング』
この作品の導入部は、半村良の小説のあるものを思はせます。

いつの間にか、読者は読み始めたままの意識で、非現実の世界に足を踏み入れてしまうやうに書かれてをります。現実と非現実が連続してゐる。

さうして、最初の「今日はツイてない日だ」と思ふ一人称の主人公の言葉が、最後まで、一筋の糸になつてつづゐてゐます。このツイていないことの事件の連続は、主人公がゾンビに襲撃されづづける間、スリルがあり、読んでゐて、ある箇所では、恐怖の感情を覚えました。これは、ホラー小説です。

それは多分、話の結構(立て付け)が、ゾンビの棲む街中の描写をして話が進むのに対して、他方、作者は、その街の周辺、周囲にあるものを描かないからではないかと思ひます。この描かない周囲の環境の様子は、作者の手に委ねられてゐて、読者の知らない全体がそこにはあるやうに思はれ、それが冒頭の、これはシリーズものになるのではないかと思ふ理由でもあるのではないかと思ひます。

最後に、ゾンビに追はれて、その途上で救つてもらつて知り合ふことになる男女それぞれ、即ちジンさんいふ年配と思しき男と、主人公が惹かれる亜依加といふ美しい若い娘とのその後の話の展開も、十分にあり得るものと思ひます。ゾンビの街から脱出できたことと、最後にこれら二人の男女が、前者がガットギターを演奏し、後者が歌を歌ひ、主人公がそこにゐて二人の音楽を聴くといふ場面との、この二つの間に作者の置いた、何の説明もなしの、ただ米印を引いただけで仕切つての話の飛躍も、尚そのことを思はせました。

2。『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』
個人的には、この話が一番好きでした。

何が面白かつたかといひますと、その大阪弁の会話がよかつた。それも、古代シリアの王国の貨幣に刻印された女王さまと、大阪に住む若者とが会話をするといふ奇想天外の話が、大阪弁の力があつて、尚面白いものになつたと思ひます。

やはり『関西魂』といふ題名の叢書としてある選集であれば、大阪弁で書いてみるといふのは、ひとつの大切なchallengeではないでせうか。北海道に生まれ育ち、今関東に住む者としては、さう思ひました。

さうして、その話の筋もまた、女王さまの有無をいはさぬ勧めによつて高級ホテルの厨房の料理人募集の記事に応募して、羊肉料理を作る審査試験に、ポケットに潜ませて臨んだこの(大阪弁おおばはんの言葉を喋るけつたいな)古代の女王の助言に従つて、挑戦するといふ若者の話が、実に滑稽で面白いものでした。

最後にこの若者は、女王のレシピが気に入つた審査員の外交官に誘はれて、イエメンへ渡り、そこで女王さま仕様の羊肉料理の料理人として職を得て働き、また説明は省きますが、貨幣の女王もイエメンの博物館に収まってゐて、そこを訪れた若者が女王を見つけ、二人が大阪弁で会話するといふことがまた最後には始まるといふ此の終はり方が、終はるのではなく、開かれてゐて、自作への期待を覚えてしまふのです。

続編を書いてくださると、嬉しい。

3。『闇宿る岩』
この話もホラーSFです。

最初の導入部は、既に読者には承知の人間関係が前提に書かれてゐますので、尚これは連作のうちの一篇だなと思つた次第です。たとへ、さうでなくとも、そのやうな一篇から連作の生まれる結構であると思ひました。

登場人物も多彩で、広く話の展開する気配が濃厚にあります。

岩が女性の性器を形どつたといふ設定ですので、何か古代めいた世界との交流も、また性愛の話もありさうで、読みながら、想像を刺激されること頻りでした。

やはり、この作品も、上記1の『ゾンビーソング』と同様に、周辺が不明、経緯が不明の話ですから、一層さう思つたのでありませう。

この話も最後は開かれてゐる話です。

さうしてみますと、『ゾンビーソング』も同様だといふことができます。

即ち、この3作は、一回限りのコントではないといふことです。(他の作家の話がコントだといふのではありませぬ。)

この話も先を読みたいと、『阪急三番街、地下二階 川の流れる街のゼノビア』の次に思つた作品ですし、『ゾンビーソング』もさう思つてをります。

しかし、『闇宿る岩』も『ゾンビーソング』も怖いなあ。わたしは、やはり明るい笑ひのある話が好きなのであるなあと、自分の好みを知つたことが収穫でありました。

しかし、もしわたしが小説を書いたらと思ふと、多分明るい小説はかけずに、ホラーかどうかは別にしても、闇夜の小説になるのでせう。この3つの作品は、そんなことを思はせてくれました。

さて、今回の主題は、幻想といふことですので、上の3作以外のすべての作品もまた同様に、現実と非現実の間にゐる主人公を描いてをります。

以下に、ひとつひとつの感想を述べたいと思ひます。

                            (続く)